「主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる。しかし高ぶる者を遠くから知られる。」詩篇138-6
「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」ピリピ3-7~8
この世でそこそこいい思いをして、天国にも行きたいと思う人はショックかもしれません。
しかし、元々この世ではあまりいい思いをしていない人にとっては、これほど興味深い言葉はありません。
「何?パウロも貧乏だったのですか?」と続きの話を聴きたくなります。
今本屋さんでも、テレビでも、ネットでも少ないコストの中でいかに自分らしく充実して生きるかというテーマの話が人気を博しています。
もし自分の収人が少なくても、身の丈に合った生活を続けて、収支バランスすることを達成すれば、それで生きながらえることができるからです。
その生活の中で自分らしい小さな喜びを見つけることができれば、この地上で楽園を見つけたとも言えます。
今の若い人は他人の目ということから脱却し、自分のライフスタイルを達成している人々をリスペクトする傾向が強いと思います。
〇〇のチャンピョンとか〇〇の王者とかの言葉に興味が湧かないかのようです。
それより自家菜園をベースに月10万円で生活するとか、同じ趣味のコミュニティーを基にカフェを経営するとかの方が圧倒的に興味が湧きます。
つまり自分に似合わないものは必要ないと思う人が増えてきているのでしよう。
最低限必要なものだけで生活することが、最高の贅沢の様に思えてきたりします。
だから最も必要なキリストさえ身近にいて下されば、あとは必要ないという究極なミリストの思想をもつパウロの言葉は現代の人々に多く共感されることでしよう。
しかしパウロは悩み事も無駄な時間と切り捨てる位に熱心に伝道をすることを勧めます。
わたしはどちらかといえば、自然を見つめながら何もしないでゆったりとする時間がうれしいです。
パウロの様にキリストのために仕事熱心な者ではありません。
それでもキリスト以外はすべてごみのようであると言い切った充実した生活は、どこか憧れるものです。
ここでわたしは考えます。
このようにキリストを熱心に考え、自分らしく主のご愛を伝える方法は実は無限にあるのではないかと。
パウロはパウロのスタイルで、わたしはわたしのスタイルで主は喜ばれるはずです。
わたしの様にぐーたらな人間でも、日々充実して幸せに生活する方法は、どこかにあるのではないか。
それを見つけること、あるいは作り出すことこそ、ワイフワークだと思うと、改めてワクワクしてきます。
この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。
*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。
工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。