しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

こんな 壮絶な生き方を、私なんかが真似できるわけがない・・・人に尊い卑しいの差はないと神様は本気で言う

その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主エスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、ぬことをも覚悟しているのだ」。 

使徒行伝21-13

 

パウロは自分の工程を走り尽くすことを知っていました。彼の使命は、生きるのもキリスト、死ぬのもキリストという生きる姿勢そのものを示すことでした。

のことに命をかけて臨んでいくということは何と素晴らしいことでしょう。 世界のどんなものもかすんでしまうくらいの明確な目的があって、堅く進んでいくということをパウロの生涯に見て取ることができます。いつも命が危ういのに、他の誰にもにも増して生き生きと輝くようにその生涯が感じられるのは、神様のご意志と自分自身の祈りが完全に一致しているからなのでしょう。

 

自分の身を守る、自分の計画に固執する、目の前の得を取るということは、地獄の中の一時の安心を得られるかもしれませんが、神のご栄光と一体となる喜びを知らないまま一生を過ごすような、きっと死ぬ前に「 私は何と不幸なのだろう」とつぶやいて死んでいくという最期を迎える切符に違いありません。毎日の中で、神のために熱心に過ごし、日々神様を喜ぶことを繰り返す。そう繰り返すことで、神様のご栄光に対する意識が強化され、ますます確固たる信仰が生まれてくる。これは言葉に出したことが 脳内で強化され、強く意識することに至り 、その意識が現実の世界に反映されていくという科学的にも証明されていることを思い起こさせます。

 

キリストの信仰を持つ偉大な人々の言葉を読むと、現実の苦しさに目を留めるのでなく、神様の視点を自分に取り入れる機会と信じて進んでいくことを繰り返す人生を見ることができます。キリストのためにならないことで大いなる利益を得るよりも、キリストのために確実な一歩を進むことに賞賛と価値を見出しています。これは他人を巻き込む盲信ではありません。他人の自由と祝福を喜び つつも、自己の完全なる自由が与えられ、もはやキリスト以外は全て不要であると言わせるほどに、この地上の様々な思いから完全に解き放たれているのです。毎日の小さな一歩でもいいから、地道に積み上げていくことに多いなりを持ちつつ、自分らしく自分の人生を喜んで生きるということにつながっていきます。

 

私はパウロという人は知識が豊富で饒舌でどのような反論も立ちどころに退けてしまう強い存在だと思っていました。今もそのイメージは大きくは変わらないのですが、生涯の病気で苦しんだり、実際に会ってみたら大したことはないと言われたりして、敵に対して必ずしも圧倒的な存在ではなかったと感じることもあります。

 

何が言いたいのかというと、この世の見方での勝ち目がなくても、イエス・キリストが世に勝利されているという事実に基づいて、 トラブル の毎日の中に平安を見出しつつ毎日を過ごしていたに違いないと思うのです。部外者のようにではなく( 観客席からフィールドの選手をやじるようなことではなく )、いつも当事者であり続け、現実的な困難に惑わされることなく、イエス・キリストと共に歩み続けたその信仰が、妥協の思いを一掃し、生涯前進し続ける力を増し加えていったと思うのです。この世の成功はないかもしれない、本当に貧しい惨めな生活で終わるかもしれない、しかしエスキリストの希望が身体中満ちて、前を向いて死ぬその日まで全力で生き続けるという精神が、今日一を充実して豊かに生かしてくださる、そんな想像をさせていただきました こんな 壮絶な生き方を、私なんかが真似できるわけがないと思うこともありますが、体に尊い部分、卑しい部分などない、職業人間に尊い卑しいなどの差がないと本気神様はおっしゃってると思います。

どうしても心を通わせられない人がいる、その時

「それは、わたしたちが一つであるように、らも一つになるためであります。 」

ヨハネ17-22

 

どうしても心を通わせられない人がいる。

一致をしろと言われても、心を共有できる要素がない。そんな時に教会の牧師先生から「 愛と寛容の心を持って一致しなさい」と説教されると、自分は罪の意識にとらわれて心が重くなってしまいます。

 

私は聖書の言葉というのは、ある一方の強調される考え方があれば、全くそれとは逆の考え方の御言葉もあると感じています。 だから自分の都合の良い聖書の言葉が示された時、あまりにも喜びすぎてそのことに邁進しすぎないように注意する一方、逆に自分にとってネガティブな 御言葉が出たとしても、バランス感覚を持って全体の中で自分の位置づけを捉えるようにして、客観的に自分の弱さを見るようにしたいと心掛けています。例えば親子関係非常に苦労をなさってる人が、「 父と母を敬いなさい」という言葉を示されて、自分は何て親不幸なんだと思い、もう一度その親元のところに近づいていくということは無条件に喜べることではありません。ある意味せっかく成長の段階で回復が与えられたのに、もう一度戻りして破滅の道に戻ってしまうかもしれないのです。ですから説教の言葉の中で示されている真理の二面性ということを意識することは大切だと思います。

 

話題を元に戻すと、一致するということは逆に一致できない面もあるということです。

そしてどの部分は一致して、どの部分は相手を尊重したまま異なったままで放っておくことができるのかということが不明確であると、自分の心が不安になってしまうのでしょう 。また、クリスチャンに対して言ってることと、あるいは全く信仰のない人に対して言ってることの区分も大事です。

 

まず信仰のない人に対して一致すべきかどうかを見極めるには、相手の自由を尊重する、しかし自分被害が及ぶ場合にはそれを抗議する、そしてそれが改善されない場合には相手から離れるという自分に与えられている自由を行使することが大事なことと思います。この世の法律は個々人の自由の行動を妨げないことを考慮しつつ、他人に被害を及ぼす行為について、最低限の制約を設ける思想で作られていると聞きました。そしてその思想は、聖書の考え方を発展させたものだとも聞きました。

一方クリスチャン同士の問題であれば、共通した信仰があるわけですから、その形をより発展させるためにの実践ということが必要になります。この相手に対して心地よい言葉だけをかけるのではなく、しっかりと向かい合って本質的な問題を解き明かすということが愛の本質だと思うのです。つまりネガティブフィードバックを愛を持って語ることができる人が、イエス様のお語りになっている、私たちの行うべき一致のための行動だと思うのです。

 

そのことができるようになるためには、自我の確立と課題の分離がしっかりと できてないと難しいと思います 相手の領分と自分の領分の区分けがしっかりできており、このことは相手の課題であり、また別のことは自分の課題であるとしっかりと認識し、自分の課題は努力して改善するという態度を示しつつ、相手の課題について、もし自分が神様から示されたのであれば 勇気を持って相手に心を開いて伝えていくことこそ、イエス様の語る 一致ではないかと思うのです。もしそのことを行うことで の間柄がより険悪なムードになったとしても、お互いの存在を押しのけることなく、たとえお互いに口をきかなくとも同じ教会に居続けることができるならば、そして自分の本心をしっかりと誠意を持って相手に伝え続けるならば 、一致を保ってるということが言えるのだと思います。このことは通り一遍の表面的な心地よい言葉で過ごしている関係よりも、よほど高い次元の一致が実現できてるのだと思います。

働き人がいないときはどうしますか。小さくなりながらそこにとどまることは御心ではありませんか。

そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。

使徒行伝6-3

 

使徒たちの進出により神の言葉は増々広まり、弟子の数は増えました。このことは私たちの伝道活動に非常に勇気を与えますが、 一方で増えないことは悪だという狭い視野の考え方に発展する時もあると思います。特に労働人口が減り続ける世の中で、増えることは当たり前だという論調は教会内の分裂生み破滅させるかもしれません。

 

教会の役員選挙の時期が近くなると、何か心がざわついて落ち着かなくなるということがないでしょうか。もし役に選ばれてしまったらどうしようかと色々と思いを巡らしてしまうことも多いと思います。私は選ばれたくない、他の人に押し付けたいという思いが働いて、本来あまり役員の仕事に向いてない人が当選してしまうかもしれません。不向きな人がトラブルを起こし、教会の運営に重大な影響を与え、役員や牧師が辞めたくなってしまうことも本当によくあることなのです。

 

町内会の場合は運営が滞ると、公園やゴミステーションの維持が立ち行かなくなるという、目に見える具体的な問題が発生します。この時問題の対象が人の心のあり方まで及ぶことは少ないかもしれません。 もちろん町内の信頼関係は重要ですが、相手の存在価値 の否定に関わることまでに発展することは少ないでしょう。

 

ところが教会でこのような問題が生じると、信仰のあり方、許しの考え方が問われ問題を起こした人または被害を被った人が神様との関係の中でそれぞれの問題を解決しようとします。お互いの和解が与えられなければ、それぞれの信仰を尊重すると同時に、分裂するとかあるいは教会離れる信仰を棄てると言ったことが起こりますつまり霊的な死の危険にさらされる危険が高まるのです。ですから、教会活動を現状維持しようと固執して、役員の数や奉仕の内容を従来並みに確保することは、実力以上の奉仕を喜びなしに続けることにつながり、適任でない人役員になってしまうことにつながると思います。

 

使徒言行録2-41には三千人ほどが仲間に加わったとありますが、これくらいの人々のお世話をするために七人の霊と、知恵に満ちた、評判のいい人が選ばれたということになります。およそ四百人で人が選ばれるという超難関な狭き門ではなかったかと思われます。教えと、相互の交わり、パンを裂くこと祈ることに熱心であったということですが 、七人が選ばれるきっかけになったのは、日々の分配のことでやもめたちが軽んじられていたからとあります。

 

私の言いたいことはまず現状維持がありきの活動にこだわるのではなく縮小の世の中にあっては教会活動のやり方も知恵を用いた縮小路線にしてはどうかと思うのです。

拝と聖餐、説教、祈り、そして交わりが 原点なのですから、これらの行いをもう一度良く考え、少人数の役員で行うための知恵が与えられるように日々 祈っています。

 

効率化という観点からは、パソコンやインターネットの活用も大切ですが、一方で年配の方に対して従来の紙媒体やCDなどを用いた郵送による伝道フォローも欠かせません。よく対面でなければ なかなか伝わらないものがあると言われますがそれにこだわってやが奉仕者がいなくなり全てが消滅してしまうよりは、できる範囲の中でインターネットの活用をしていくことを柔軟に考えていくことが大切だと思います。 一方でパソコンに抵抗ある人に、無理やり使用することを強いることも問題だと思います従来を行っていた奉仕をやめることは多くの抵抗を受けるかもしれませんが現実の世界で一つの場所に集まって、 同じ時間を共有するということのこだわりを捨てるということは、特に年配の方にとっては理解していただきたい重要な課題と思います。 一方で コミュニケーションの基本を忘れず 相手のことを思いやるとともに祈るということが、いつの世 最も重要なことである と心に留めておくこと 何よりも大切だと思います。

復活を信じ、目が開かれ天国を見る


しかし、わたしたちの国籍
は天にある。

ピリピ3-20

 

フィリピ人への手紙では信仰を実践的に生かすよう励ましています。そしてパウロ信者たちに彼らの真の市民権が天にあることを思い出させています。この御言葉が私たちの日常生活与える影響を考えてみます。

 

エス様が復活されたということを信仰できるようになると、全ての淀んだ思いが流れ始め やがて大きな本流が現れてきます。活の教えさえなければ、私はキリスト教を信じたろう とよく言われるのですが、逆に復活の真理が見えることによって、全ての扉が開かれるということが言えるでしょう。

 

エス様はペテロやパウロという、イエス様を否認したり、信者を迫害し殺害する者をあえて選ばれました。絶望や憎しみを経験した人ならば誰もが理解できると思いますが、人は一旦敵意を持った者に対して、しかも相手の命に関わる問題についてネガティブな選択をした時には、決して再び相手を信じるということはできないことだとよく知ります。人間の力ではどうにもできない憎しみを生涯負い続け、安息の時を全て台無しにして復讐を企てるのが常ではないでしょうか。または全くそれを記憶の中から排除し、何事もなかったかのように生き続けるのかもしれません。 ましてや、かつて敵意を持った相手に対して、その後命をかけて その相手の教えを広めることなどあるわけがないのです。

 

だから神様は復活の事実を後の世の人に信じられるようにするために、ありえない状況を克明に聖書に記録させたに違いありません。 復活は私にとっては信じる信じないの問題ではなく、毎日太陽が上り、沈むことのように事実なのです。

 

そうすると、次のことに向かい合います。まだ私たちが経験していない天国のことです復活が真実だとしたら、その真実を伝える働きをした人たちの語るイエス様の言葉は、そのままスポンジが水を吸い取るように染み込んでいきます。 私たちは死んだ者も、生きてる者も携という形でイエス様のところに引き上げられ、地上では大患難時代を経て、イエス様の再臨を迎え、千年王国 そして最後の審判を経て、新しき天と新しき地を迎えます。今このことを見た人は誰もいませんが、イエス様の復活を信仰するようになった今、これらのことを退ける理由が全く見当たらないのです。

 

従って残された地上の生活の中を、私たちの国籍は天であると信じて日々歩むことは、何よりも恵みへの確実な歩みであると思います。天国で実りあることとされていることを、この地上でも追い求めようとすることは、私のこれからの後半の人生の最重要課題です。

 

聖書には実りとは次のようなものがあると書かれています。(ラテヤ5-2223 )愛、び、 平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制 これらは「 今、私は手に入れた 」と思った瞬間消えゆくものでしょう。また努力をして勝ち取るものでもありません。 これらは悲しみや苦しみを通り越した者だけが身につけることのできる神様の恵です 。だからこの地上のつたない歩みでもイエス様の助けによって最後まで通り過ぎることができるならば 、イエス様によって与えられるであろう賜物を得る事ができると言えるでしょう。

 

このことを信仰しながら日々歩む時に、生活が苦しくともイエス様に繋がってるという満たしを与えられこの地上においても天国の働きを見つけることができるのではないでしょうか 。小さな自分の殻を打ち破り、新しい視点でもう一度 日常の生活を振り返ってみると、私たちの国籍は天ですと言ったのと同じ熱意を持って、 この地上の様々な愛の営みを見ることができるのではないでしょうか。そしてその期待は決して不安定な泡のようなものではなく、復活に裏付けられた確信と同じ確かさを持って、天国を信仰することができるのだと思います。

自己アイディンティティに目覚めること、それは大変厳しい難産のような道程

 

「イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。」

ヨハネ13-7

 

神の計画や意図が信仰の視点から人々には理解できないが、将来的には明らかになるということがあります。私たちが現在直面している出来事や状況が、神の計画の一部であると信じるものは幸いだとおっしゃるのです。

 

幼い頃から自分の存在を否定され、心の拠り所を求めて親や周囲の人のご機嫌を取り続け、他人の心の重荷を負い続けてやがて自分自身の心が崩壊する時も迎えることがあります怒りを爆発させ周囲に攻撃を加えることもあれば周囲との接触を断ってアルコールや異性関係に依存し、最悪の場合は自殺という手段を選ぶこともあるでしょうもしこの時に、傷ついた心を受け取ってくれる人が周囲にいなければどうなってしまうでしょうか。

 

実は世の中の多くの偉人が幼い時このような精神的に不安定な状態を過ごしていたということを知るのは意味のあることかもしれません。夏目漱石、 太宰治川端康成 ヘミングウェイ、ヘッセなどの文学者はその作品の中からでさえ、自分自身の人生に現実に起こったこれらの出来事から引き起こされる傷ついた心を、十分に読み取ることのできるでしょう

 

特に ヘルマン・ヘッセの人生は私の多くの興味を引きまし彼は父親が牧師、母親が宣教師という大変厳格な家庭に過ごしました。当然神学校に進むべきという期待を背負わされ、現実に神学校に入学するが、ある日行方をくらましてしまいます。憔悴しきった姿で見つけられたは知り合いの牧師の家に預けられましたが、牧師の家で仲良くなった片思いの娘に付き合いを断られ、自殺未遂騒ぎを起こします

両親は精神病院に入れようとしたが、医師の勧めで重度の知的障害の子供の施設に入れられることになりました。 当初は死んでやると怒りましたが、日が経って規則正しく生活をし、重い障害を持つ子供たちの世話をしたり、庭仕事を手伝ったりすることに安らぎを覚えるようになりました。 その後不安定な生活は続きますが学業を諦め書店員になって働き毎日のように交わしていた両親との手紙の中で、良いことも、悪いことも、ありのままの自分を知らせるようになりましたしかしその書店でも行方不明の騒ぎを起こします。 父は我が子に期待をかけることを諦めました。実家で暮らすことになったヘッセは祖父が残した多くの本を読み喜びを味わいます。 そして作家になりたいと言い出しました 。そんな時今までの人生とは 毛色の違った時計職人という仕事で働き出しました

規則正しい生活は彼に心の余裕をもたらしました。そしてもう一度書店員を自ら選び取り、創作を続け出版のチャンスに巡り合うのです。

 

彼に必要だったのは大学の高度な教育ではなく、第三者の介入を退け自分らしく生きることを自ら選択する道でしたしかもそこに至るまでの困難に満ちた人生を経験することは、「 車輪の下」を創る上で重要な非常に重要だったことでしょう決して我が子を捨てることなく手紙を書き続けた両親の存在は確かに彼を支えたことでしょう。しかしもう一つ、自分の日常の生活の中に喜びを見出し、自分らしさに目覚めるに至ったことが彼を立ち直らせる大きな要因だったと思うのです。

このような物語は人間の介入がなくなった時、そして神の導きが成し得るとき初めて起こることだと思います。

 

*この記事は岡田尊司さん「境界性パーソナリティー障害」の本を参考にしています。

相手を殺しても満たされない、相手への最良の復讐は自分が幸せになることである。

 

彼らが 問い 続けるので、イエスは身を起して 彼らに言われた、「あなたがたの中で罪

のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

ヨハネによる福音書8章7節

 

神様を信じたものは救われる。 」「 神様を信じないものは救われない。 」という話と、「 謝ったら許す。」「 謝らなければ許さない。」という話は何が違うでしょうか。 前の話は神様と人という関係に対し、後の話は人と人との関係であることの違いがあるでしょう。

人と人との関係では「 さばくのは神である。」ということと、「 七回 を七十倍許しなさい。( 無限に許しなさい。 )」ということを神様はおっしゃいます。頭では理解できますが 、こんなことを実践できる人間がいるのでしょうか。

 

一方でこんな御言葉もよく引き合いに出さます。 「 否は否、しかりはしかり」というものです。「 目には目を、歯には歯を。」という御言葉も同じくらい出てきますこちらの方は被害者の側が怒りを持って発言することが多いです。しかしよくこの言葉を聞いていると、自分が相手を強く罰するという意志が強くそれに賛同する人を多く求めている感じがします。そして 正しい手順を踏まずに短絡的に相手をやり込める 論調になります。このようなことがまかり通ればこの世の人間は全て殺されてしまうでしょう。

 

こうして見ると聖書にはある基準に従って相手を罰しても良いという旧約の基準があるにもかかわらず、 新約では( エス様のおっしゃるには)そのこと慎重に無限に考え続けなさい、怒りに任せて刑の執行を行うのではなく、罪を犯したことを悔い改めに導き続けなさいとおっしゃっておられると思います。

 

法律に基づいて刑が執行される場合は、完全ではないにしても、比較的 正しいプロセスをたどることになると思いますしかし 実は日常の生活の中で起こる不平不満の連続の方が、人間に深い影響を与える場合が圧倒的に多いと思います相手の心と自分の心の認識のずれがあった場合に、自分は重大に思っているのに相手が軽く考え、傷つけられるケースが多いのではないでしょうか。この他にも、心が物やお金、時間などに置き換えられることができると思います。相手に反省の色がない場合や性格的な問題などの場合で、この傷つける行為が繰り返される時、人は相手に 憎しみを持ちます。これが爆発して破局を迎えるか、一方的な抑圧の中で心理的病んでしまうこともあるでしょう。

 

その時爆発もしない 、抑圧もされない唯一の方法として、あなたは自分の幸せを大事に考えなさいとイエスはおっしゃっているように思うのです。憎しみを持った相手への最良の復讐方法は自分が幸せになることです。その手段として赦しなさいと言っておられると思うのです。自分の家族を殺した相手に積極的に握手をしに行きなさいと言ってるのではないのでしょう。被害者の方の傷が癒され、その憎しみを忘れるために、相手にとらわれるなまた離れなさいとおっしゃってるように思います。もちろん 罪を犯した人と、被害者の取りなしを行うことは素晴らしい働きだと思います。

 

一方で罪を犯した人がその謝罪のために相手に接触を求めることがありますしかしその時大切なのは、大概の場合は、被害者はそのことから離れたがっており、あるいはもう忘れており、 今更と思われる行いは迷惑でしかないと知るべきでしょう。大切なことはイエス様が何回でも赦しなさいとおっしゃってる回数を心に刻み、実はこの御言葉は自分が罪を許す側でなく罪を許される側だと気づいて、終わることなく悔い改めを続けることだと思います。

聖霊が光を見させてくれるというのは、気のせいではありません。信仰は急激に増え広がります。

エスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従が

って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

ヨハネ812

 

光と闇の戦いは、神と悪魔、善と悪の対立を象徴しています。キリストの降誕時、闇は深かったが、キリストは十字架の復活によって罪と死と悪魔という闇の三位一体 に打ち勝ちました。

 

光は太陽や月がある前から天地創造する最初の3日間を照らし続けたという説明を聞いて驚きました。太陽より輝く光とは何か。 全く想像もつきません。 何かを調べるうちに、シャカイナグローリー という言葉に出会いました。神の臨在が人間に知覚できる現象となって現れたもの。それは光 、火、煙、雲、雷、雹、角笛の音などがあるということです例えばジプト記 に記されている天幕の上の雲の柱や夜を照らす火などはシャカイナグローリー と呼ぶことができるとのことです。

 

私はこの言葉をよく知りませんでしたが、この言葉に出会って大きな衝撃を受けました。物理的な光を超えてあらゆる闇を打ち砕く光( =シャカイナグローリー)が存在する。そしてそれは私たちの心の中に宿ることができるというのです。シャカイナグローリーとしてイエス様はこの世に生まれてくださいました。そして十字架にかかり、復活して私たちが永遠の命を持った時に住む家を準備してくださっています。その間地上にいる私たちのためにイエス様は聖霊送ってくださいました。この聖霊は私たちに光を見させることができないでしょうか パウロが光で一時目が見えなくなった程の光を、私たちは見ることはできないでしょうか

 

私は今どうしようもなく喜んでいます 。現実に眩しい光を見たわけでありませんが、 心の中に光が輝いているのを感じます。私に従ってくるものは闇の中を歩むことはないとイエス様はおっしゃいます。親子関係から始まり、その延長で社会生活を送ったため人を恐れながら生きることによって培われた不安の心は、よりその方向を強め世の罪に染まり、周囲に悪賢い人々を集めました。世の中の知恵は、カモネギを背負ったような心悩む人にとっては、自分を搾取する人々を喜ばすことにしかなりません。そのために目覚めることが必要ですが、その光は様々なきっかけで生まれますある時は 人間関係の決定的な失敗であったある時良き読書の機会であったり、また自然を見て心を新たにされることかもしれません。

 

しかしそれらが働きエスが復活されたことに気がつかされる時、私たちの信仰の殻は一気に剥がされます。の場合はイエスを裏切った弟子たちが、再びイエスの伝道のために命をかけ世界中に飛び立って行ったことの聖書中の記事を見て 、このようなことは生き返ったイエスに出会ったことによってしか起こりえないと確信したことによるのです。つまり聖書中に弟子たちの最も恥ずかしいイエスの否認が記されていたために、それと同じように人間の裏切りや憎しみを経験することによって、弟子たちと同じ気持ちになることができたのです。そして私は思いましたエスは確かに復活した人間から見て一番不合理な復活を信じたのだから、聖書の他の書かれていることも全て信仰するに至るに違いないと思ったのです。

 

ですから復活を信じさせてくださった聖霊様の働きも、そのきっかけを作った人間関係の困難を経て 読書をきっかけに与えられた気づきも、私にとってシャカイナグローリー と呼べる光だったに違いありません。