しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

今あるうれしいことに感謝出来ない~次々に不安にさせる欠乏欲求

 

エスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

ルカ 17章17~19節

 

エス10人のらい病人を癒した際、ただ一人のサマリア人が感謝の心を示しました 。感謝の言葉は私たちを喜びと幸福に満たします。感謝することで私たちは神の恵みをさらに受け取ることができるでしょう

 

教会の奉仕をしていると、その達成感で満たされ神様を賛美したくなりますこの喜びは無限に続くと感じ生涯の献身心を動かされます。

しかし時が経ち感情の高まりが鈍化してしまうと、かつての思いが消えそうになることがあります。一体何が起こったのでしょうか。人が行動を起こす時成長欲求と欠乏欲求の段階があると言われています。

マスローの欲求5段階説というものがそれで下記の通りとなります。

●成長欲求 自己実現の欲求

●欠乏欲求 尊重の欲求

      所属と愛の要求

      安全の要求

      生理的欲求

また、加藤諦三さんは著書の中で成長欲求と欠乏欲求を次の通り 説明しています。

●成長欲求

 自己実現

 プロセス重視

 自己アイデンティティ理想=現実

● 欠乏欲求

  成果追求

  結果重視

  自己アイデンティティ理想>現実

欠乏欲求を一時的な成果で満たしたとしても、その段階にとどまっていれば尊重の欲求( 承認欲求 )に再び 突き動かされて、もっと他人に認められようとしてこれを繰り返して疲れてしまうということになります。会で熱心に奉仕をして信仰熱心と思われたい、影響力のある偉大な人と思われたい多くの受洗者を導く伝道者と認められたいという願いを追い求めても、欠乏欲求で動いていればいつか破綻してしまう( 燃え尽き)ということになりかねません。 教会では非常に尊敬を集める人が、家では愚痴不平、不満が多く、家族がバラバラという状態に陥ってる場合はひょっとしたら、この尊敬されている人が欠乏欲求で奉仕をしているという可能性があると思います

 

この状態を乗り超えるために成長欲求を意識する必要があります。まず自分の理想と現実を謙虚に振り返り理想と現実が一致するように理想の方向を変える、ハードルを下げるということを意識しますこの時一番大切にしたいのは自分らしさです。地道な日常生活の中で、寝食を忘れてしまうくらい打ち込めることは何か、自分が最も生きていると感じる瞬間は何かを考えそれを口に出したり、書き留めたりするのですそしてそのために一歩ずつ日々何をしたら良いかを考えるということです。 実は自分の生涯の自分らしい目標を見つけた時というものは、その瞬間すでに行動に移している位のことかもしれませんどんなに未熟でも、徹夜でキャンバスに向かう、人から笑われるフォームでも夢中でトレーニングを行う、あるいは 県内のラーメンを極めるというようなことかもしれません。

 

自分のこの行動を成長欲求からか欠乏欲求からか見極める方法がありますそれは自分の行動を人から批判された時そのことを簡単なやめようと思うか簡単に考えを変えてしまうかということです。もしこれが本物なら生涯に渡って寄り添ってくれる貴重な宝物を手に入れたということです。

そしてこのような成長欲求に満たされた時、初めて人は毎日感謝できるのだと思います。 木の鳥、道の花空の雲を見て嬉しくなり毎日喜ぶことは、実は高みを目指す努力で得るものではなく自分らしさを愛することで誰でも必ず受け取ることができます。

神様、父と母を敬わない者は、長生きが出来ませんか。・・・僕はつらかったです。

「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの 神、 主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」出エジプト記20章12節

 

この言葉はモーセシナイ山で神から授かった十戒の中の第の戒めですこの戒めには神様の特別な約束 あなたのが長くなるためであるがあります神様は神が建てられた権威に従うことを望んでおられます両親には感謝尊重助けの気持ちを持つようにとめています

 

若い頃、教会学校でこの御言葉のメッセージをしている先生が「 神様は皆さんのお父さんやお母さんのように、あなたのことを愛していらっしゃるのですよ」と話しているのを聞いてがっかりしたことがありました。もし神様が私の両親のようならば、私はこの世に望みなどないと思ったのです。冒頭の御言葉はそうしたらあなたは幸せになり地上で長生きすると続いていますから私は短命なのだなとも思いました

この御言葉にがっかりした人に対して生きる望みを与えてくださる御言葉やメッセージはないのかと長い間待ち望んでいました。「 両親に苦しんでる人はこのように救いを求めなさいと勇気ある説教をしてくださるにはなかなか出会えませんでしたしかしインターネットで中川健一先生の聖書入門.comに出会いましたそして 虐待する両親も敬わなければいけませんか という質問にまず①親と自分の間に 境界線を引きなさいということと、②替えをしなさいということ が語られていました

 

私は昔読んだことのある親よりも神に従いなさいという聖書の言葉に大きな慰めを得ていました。

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」

マタイ10章34節から39節

この時直感的に自分の本当の父は神様に取って代わってくださると確信したのですその神様が喜んでくださるためにも 自分らしく生き生きとこの人生を歩むことは素晴らしいことだと思ったのです

 

また人が死んだ後天国でもう一度地上と同じような気持ちをもったままで会うことはないという御言葉にも大変慰められていました

「復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。」

マタイ2230節

 

キリスト教が私にとって最大の慰めになったのは神様が私の実の親に代わって父母となってくださるという思いがあったからでしたこれこそ真の神の最大の存在意義なのだと思いました私は幼い時から両親の喧嘩や多くの転居、親戚に預けられることも幾度とあり早く自立したいと思っていました。だからこの願いを果たすために一生懸命勉強し会社に入ってからも経済を確保することで必死でした安心した愛のある会話をすることができなかった両親との生活をはっきりと嫌いだったと認め、しかし今家族と共に、自分は自分らしく生きるということを決意できた時初めて私は他人の目が気にならなくなり心の自由を手に入れることができました

 

そうして私は今やっと 両親の墓に参る気持ちが芽生え憎しみの気持ちを捨て去ってエス様が復活する時には互いに協力して神様のために働きましょうねと心に思うことができるようになりました

 

私が教会学校の子供たちに、「 あなたの父と母を敬え」という 御言葉を教える機会があったなら このように教えるでしょう   父さんとお母さんが好きな人はその気持ちを大切にしてご両親を大切にしてくださいしかしもしお父さんお母さんと一緒に話をすることも落ち着かない気持ちになる人はきっと必ずその気持ちが取れる日が来るだろうということを信じてくださいそして誰でも神様をお父さんと呼び困ったり悩んだりした時に助けていただくことができるということを信じてください皆さんが成長してから一人立ちする時神様は永遠ホッとする気持ち( 自由を与えてくれるでしょう 。」 と。

視点が狭いということは無駄な努力をしているということ

話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。ルカ5-4~5

 

信仰は私たちの生活において重要な役割を果たします。しかし 信仰が実を結ぶにはイエス様の言葉に従って行動する従順が不可欠です。エス様の言葉は私たちに方向を与え奇跡を起こします。

 

今から28年前 私はイスラエルガリラヤ湖畔を訪ねたことがありました。山上の垂訓 教会というところからほど近いところに、走り寄ってイエス様を見上げるペテロの像が建てられています。ガイドの方はここでこのような話をしました。夜通し網を張ってもちっとも魚が取れなかった漁師たちからは魚が見えなかったが、イエス様は沖の方に魚がいることを知っていた。この岸辺では光の加減で、船の半分には魚が見えなくて、もう反対側に魚が見えるということが本当にあるそうですと。

 

視点の狭いことが命取りになるということは本当によくあります 。私も会社で大変な失敗をしたことがありました 。その職場はどちらかといえば、地味な製造現場で技術的な知識が不足しているような状態でした 。私は一生懸命に働き、次第に成果を上げるようになりました。そしてそのうちにこのように 技術レベルを上げることが大切なことと思い、自分の後輩たちにもそのようなことを要求するようになりました。しかし当時の上司は、メンバー間の信頼関係 こそ優先すべきと考えており、上司にも部下にも好き勝手振る舞う私のことを快く思っていなかったのです。私は技術こそ最重要課題であると盲信していましたから、周囲と対立することになって孤立してしまったのです。私は、法定検査のための指示も部下に守ってもらえない事態を重く受け止めて、他の職場への配置転換を申し出てました。その結果、私は他の職場に移ることになりましたが、最後の1日まで対立のムードは消えませんでした。

 

私はこの時仲間と協調するという大切な側面、つまり仕事のクオリティを落としてでも、人間関係を持続可能なものとして良好に維持することが大事だということを理解できていませんでした。

同時に、周囲にどう評価されるかではなく 、自分らしく生きるためにどのように自分の課題と向き合うかを理解できていませんでした。

 

 時は移り私が上司になった時、これと全く逆の体験をしました。この時は先の職場と異なり、どちらかといえば 他職場からの転入者が多い、多種多様な人々が集まっている職場でした。私はこの職場の人々に、いかに良好なパフォーマンスを発揮してもらうかを優先して考え、仕事のクオリティよりも、人手不足の中、外からの人材を頼らない方針を貫いていました。

ところが若い部下が技術のレベルアップこそ最優先すべきだと意見を譲らず( つまり人を入れ替えるべきという意見と)対立関係になってしまいました。職場の組織運営で人事ほど頭を悩ませることはありません。メンバーのパーソナリティを考えつつ、最適な配置を考えている私の人事を若い部下は批判しました。いや 実は多くの人々が私の人事を批判しました。しかし私は キーパーソンとなる人の選任を断固として譲らず、結果として、この若い人を 転出させることを選びました 。眠れない夜をいくつも過ごし、妻や娘を不安にさせ続けた私が、今日まで乗り越えられたのは、自分の課題に対して多くの読書を通じて視点を広げたことが大きな助けとなりました。 特に心理学の本を学び、問題となる相手への理解が核心に触れた時、相手に直接伝えずとも、私の心の恐怖と憎しみが消えることで相手の反発が劇的に少なくなりました。

 

この時、私は若い時に人事の大切さということを全然気使っていなかったことを思い 、この若い人も昔の私と同じであると感じました。

こんな人への配慮の欠けた私が、この難しい職場で9年も所属長を務めることができたのは大きな奇跡だと思っています。

 

視点を広く持つことは自分の努力が報われるための大切な条件です。そしてその目的とするところが間違った指標であるならば、 自分の命を失うことにもつながると身にしみて感じています。イエス様がおっしゃる何よりも大切なものは愛であるという基本方針に従うことが豊かな実を結ぶ大切な条件です。

人間関係をすべて失ってそこから始まるもの~多くの人が経験すること

 

 

「しかし、信じたことのないを、どうしてめることがあろうか。いたことのないを、どうしてじることがあろうか。えるがいなくては、どうしてくことがあろうか。 つかわされなくては、どうしてえることがあろうか。」

ローマ人への手紙10章14~15節

 

この聖書箇所は、信仰の基礎となる知識や真理が伝えられなければ、人々はどうして信じることができるでしょうという、信仰の成長に必要な知らせることの重要性を説いています。私たちは知らせるものとして招かれています聖書は私たちに与えられた使命を明確に示していますエスキリストの救いのメッセージを世界に伝えることが私たちの責任です知らせるものは喜びと熱意を持ってメッセージを伝えるべきです愛と思いやりを持って人々にアプローチし、真理を示すことが重要です

 

クリスチャンであることを世の中に証するということは簡単ではありません

大抵は多くの反発を招くし自分自身が批判の的にさらされる機会も多くなります 人の目を気にしている状態で神様の証をしようとしても人の言葉に傷つき自信を失ってしまうことでしょう

 

私のような者の話など誰も聞いてくれないという思いを幾度もして自分は世の中で一番惨めな存在であると自ら認めるところまで来てようやく自分の握ってるものを離すのです 世間の目、自分の理想 ナルシズムを全て打ち壊された時ようやく自分の周りの人間関係をリセットすることができますそして今まで一番起きて欲しくなかった事、 つまり人との関係の一切を失った時実は自分の身の回りに何も起きないことを知りますもう一度言います人間関係が全て失われていても自分自身の悔い改めとそこから導き出される真実に対する正しい認識がそして神の愛への回帰が正しくなされていれば自分の身の回り 家族も含めて)のもので何一つ失うことはないのです

 

皆さんはそんなことがあるのかと思うでしょう。しかし、世の中の評価というものほどあてにならないものはありません。神の目から正しくても世間からつまはじきにされるようなことはいくらでもあるのですそのような時自分自身の心を保つために苦しいことでありますが 一度孤独を経験する必要があります

 

ここから初めて親から世間からの一人立ちを実感することができます言葉と心が信仰と一致して毎日を生きる喜びに満たされることができますこのようにして私らしさを取り戻して生きる時 世界のあらゆるものが輝いて見えます感謝に溢れた身の回りの一つ一つをそのように笑顔で迎え入れる時人は何でそんなに嬉しそうにしているのですかと尋ねることでしょう 一生懸命神様の素晴らしさを語ろうと人の後追いかけてきた時よりもずっと多くの神様のご栄光を人々に伝えることができます

 

神様は私たちに対して神様のご栄光をお伝えするためにそれぞれの置かれた道で幸せになってほしいと思っておられると思うのです人は幸せになるために孤独を通して目を開かされ最も大切なものを出し心を尽くしてそれを愛するその時初めて人によく見られるために行っていたことを離れて自分らしい伝え方をできるのだと思います

教会役員をやる人がいない

 

心をつくして主に信頼せよ、

自分の 知識にたよってはならない。

箴言3章5節

 

教会の役員の荷を負って下さる人はあまりいないでしょう。

今の現役世代の人たちは、子育て、介護などで今生きていくのに精一杯だと思います。昔も大変な中でみんな頑張ってきたとおっしゃる方も多いのですが、私は反論することが多いです。給与も長い間伸びない中で昔の税率は35%だったものが今45%から50%になっているこれは戦時中と同じ水準で今戦争してるのと同じ経済状態であると言うことらしいです今働世代の人々が少なくなる 中で、いかに戦略的に小さくなっていくか ということが目指すべき課題だと思います

 

この世の知識ではなく神の言葉に頼れとおっしゃる方もおられます最近この言葉を再び深く考えるようになりました 確かに神様の御心を行う働きは聖霊様が豊かにまれているところで豊かにされることでしょう ですから私は神様の祝福により、益々増え広がるということを待ちんでることは間違いありません

 

しかし 同時に神様の知恵をいただきたいと思っているのです 例えば教室の黒板の方向に歩いてきなさいという命令があったとします その時立ちってまっすぐ黒板に向かうなら机にぶつかって前に進めなくなることでしょうしかし一旦横に迂回して通路の側に出てから前に進めばスムーズに黒板側に向かうことができるのです。これが神様の知恵だと思うのです

 

古い考え方のもとで拡大路線を歩んでも実を結ばない働き人が少ない中で従来通りの重厚長大なことを考えてもダメだと言いたいのです今まだ教会でパソコンを自由に使える人は少ないですが あと20年もすれば全世代がパソコンネイティブになるでしょう実際に顔と顔付き合わせるコミュニケーションでなければだめだという方も多いのですが果たして100% そのような face to face のこだわりが必要でしょうか そして教会の全員が50%リアルなコミュニケーションと50%のパソコンコミュニケーションで過ごせるとしたら情報の速度と量が格段に上がりますまた zoomや teams での対話は遠隔地での教会員の力強い味方となるはずです 教会の大きなコストである教会堂の考え方も大きく変わるかもしれません

 

もう一つは牧師の役割が変わってくると思います聖書の学びはインターネットを通じて非常に豊富な知識を享受できます。しかしその知識をどのように解釈するか、実生活にどのように適用するかという実体験に証する話に興味が尽きないことでしょう つまり、聖書を知って私はどのように幸せになったかということについての、共感と納得できるような話を人々は必要としています

 

説教者を養成する信徒訓練に100日以上を要するという話を聞きましたが今の世の中で、普通の人はそんなに時間を捧げることはできません老後も含めて一生働く世代として生きるのが精一杯の中で説教者を目指すということは霞を食べて生きて仙人になれてと言ってるのと同じだと思います

コミュニティとしての教会の運営能力も大切だと思いますがこれは信徒訓練というより実社会生活で学ぶべき課題でしょう 知識はインターネットに任せ霊的な成長と実りを与えるための指導者のための能力開発ツール れも1週間程度の訓練コース と選別 テストの組み合わせが現実的ではないでしょうか

説教者の育成ができなければ牧師の数に合わせて教会は統合縮小するという道を辿るでしょうその時遠隔地の運営にインターネット技術は大いに必要となることと思います。

教会を離れると死ぬと言うけれど・・

「わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。

しかし、ひとりびとり神からそれぞれの 賜物をいただいていて、

ある 人はこうしており、他の人はそうしている。」

コリント人への第一の手紙7章7

 

教会に疑問を感じ、教会を離れたい、変わりたいと言うと、牧師から必ず言われることがあります。 それは大変危険な状況です 」「 教会を離れたら霊的な死を迎えますいうものです 相手が悪いのか自分が悪いのかという狭間の中でエスキリストの体である教会が悪いはずがないという世間の目との戦いを繰り広げるのです。この考えから抜け出せず頭がぐるぐる回り、うつ状態となり夫婦関係が壊れていくこともあります。

エスキリストと家族の両方取ることができる方法がいくらでもあるのに教会=イエスキリストの図式をもとに教会を離れることができません

束縛を受けるにとって自分の心と体を守る最後の砦がその所属している組織や人から離れることだと思っています

そして自分が大切にしたいと思うものが家族であればそれを愛することを目指すことがキリストにつながることなのだと思うのです

 

もっと 極端に言いたいと思います 神が結びつけたものは人がしてはならないという理由で離婚を踏みとどまってる人が多くいらっしゃると思いますがそのことで子供に深刻な影響を与えているなら離婚をした方が優れていると思いますお金のために我慢して結婚生活を続けるならば最低限二十歳になった子供は自由にさせてあげるべきです結婚した子供の家に世話になるというのは子供との信頼関係があって初めて成り立つこともしお金が理由で我慢して子供の苦労を黙認するなら子供との信頼関係は諦めるべきでしょう

 

教会を取るか家族を取るかお金を取る愛をとるか、というのは同じテーマのように思います自分で信仰を持って教会つながるというのは素晴らしいことだと思いますしかし信仰を持って教会を離れるということもありえるのではないかと思うのです神様が人のことよりまず自分の課題に向き合いなさいというのは神様の導きであるということが実に多くあるのではないか自分の直すべきことを放っておいて人に神の道を説き、迷惑撒き散らすことが多いのではないでしょうか。そのために自分一人が、あるいは夫婦が静かに神様と向き合うために、教会を離れるということが必要な場合がないでしょうか

 

パウロ・コエーリョの小説に「 ピエトロ川のほとりで泣いた」というものがあります。修道院を逃げ出した青年を神父が追いかけてやがて向かい合う時が来ます。その時神父が あなたの愛する人を幸せにしなさい人の未来を祝福するのです

 

そもそも教会を離れることが良いか悪いかと論じてる時点で私は愛から離れているのだと言えます。

誰も止めることが出来ない、命をかけて守りたい、誰かの目を気にして行動を制限する事など思いもよらない状態で突き進むこと、それはただ愛のゆえに教会の奉仕に熱心な信仰熱きクリスチャンと引きを取らない愛なのだと思います

妻を取るか、教会を取るか~多くの夫婦が通る道



偽善者よ、まず 自分の目から梁を取りのけるがよい。

そうすれば、はっきり見えるようになって、

兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

マタイ7章5節

 

私が日頃愛読している加藤諦三さんの本の中で一番思い出に残っている言葉があります 駆け落ちは親からの乳ばなれ離婚は世間からの離れというものです数多くの著書の中での名言この言葉が一番印象に残りました夫婦の問題を外のことの問題にすり替えているうちは家庭に平和は訪れませんよく行われることとして子供にその責任を負わせるというものがあります子供に問題があるから私は幸せになれないと言いながらその一方で子供を不幸の立場に追い込んで夫婦の安定を保とうとするのです 冗談ではなくこのような環境で育った子供は他人の言うことを何でもよく聞き自分に自信を失い他人の悪巧みを見抜くことのできない生きた屍になるのです

ですから子供を育てるのに一番大切なことは、親自身の心の不安恐れ怒りなどの問題を引き起こす自分の奥底にある本当の動機に気がつくことが大切だと思うのです 自分の問題を正面から見据えて本質的な改善を図ることを聖書では悔い改めと言い、奇跡と呼んでいます

 

同じように夫婦で教会のことが問題となり それが喧嘩のになったりします 妻は自分勝手な夫に愛想をつかし、夫は教会と妻の間に挟まれて苦悩するという構図です 先にも言いました通りこれは本質的には夫婦の問題こそが中心的課題です極端に言いますが夫は教会を取るか妻を取るかのどちらの覚悟もないのでしょうもし不倫や浪費をせず真面目に暮らしている妻が悲しんでいるのにそれを慰めることできず かえって逆切れしてしまうようであればそれは自分自身が未熟で世界観が狭く周囲の人の重荷を受け取ることができないということに気がつくべきでしょう

しかしそこからが劇的な回復のスタートなのですそしてそれは自分が弱いという捉え方をするのではなく自分が人を見る目がなかったことそして周囲にはろくな人がおらず騙され続けてきたということに気がつくべきですしっかり 両面を開け教会の中にも潜んでいるずる賢い人々を撃退しなければいけません

 

まず教会はあなた方夫婦の幸せを保証することはできません

いつでも自由に離れることができる自立した精神を持って教会に関わることから始めましょう実は自分では教会を支えてるつもりが本当はお荷物になってるということが多くあるのです

だから家庭を治められない状態をまず理解しそのことが 神様から与えられた第一の課題であると心することが必要です

夫婦がお互い信頼関係を持って話すことができることほど当事者だけでなく子供にとっては何よりも嬉しいことはありません夫婦が本当に信頼し合っている家庭の子供は幸せな子供時代を過ごすとともに順調に自立できると思いますこのように幸せ歯車が正常に回り始め生きてることが嬉しくなる時教会の見え方が変わってきます

 

自分らしくエス様を伝道することを熱心に考え、自分の理想と能力、そして神様 御心が一致した形での自己実現と自己アイデンティティを確立を果たしつつ、最も御心にかなった働きをすることができます。もはや人の目も、自分の賜物や能力の高い低いも気にならなくなり、完全に自由にされた自分を見つけることができるでしょう。妻と教会に挟まれた夫の皆さん、少し回り道をして自分の視点を変えることを祈ってみてはいかがでしょう。