しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

どうしても言うことを聞かない人に教会を出て行ってと言ってはいけないの?~教会にも人間関係の悩みはある

そのとき、ペテロがイエスのもとにきてった、「よ、兄弟がわたしにしてした場合たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 エスわれた、「わたしは七たびまでとはわない。七たびを七十するまでにしなさい。」

 マタイ18-21~22

 

どのような組織でも、人を取りまとめるという仕事は最も大変な仕事です。

組織の上に立つものは個人が問題のある行動を起こした時に的確に相手が納得する形で話し合いをしなければいけません牧師や役員が一番大変なことは問題のある人を愛を持って諭すことと同時に被害を被ってる人などに慰めを与えなければいけないということです

人のトラブルで教会員あるいは牧師が転出してしまうということは工場で言えば 事故が発生したということと同じだと思いますその時にしっかり原因となることに踏み込んで対策を取らなければ次の人に同じトラブルが発生することになりかねません。

 

言葉を変えて言えば 優れた牧師や役員というのは、人のトラブル時に問題解決能力が高いということができます。

そしていざ問題が起こった時にその時初めて核心をついた問題点を指摘したとしても相手はそれを受け止めません

日頃から信頼関係を作りネガティブフィードを相手に伝えることのできる関係を作っておかなければならないのです

つまり優れた問題解決能力のある人は鋭く相手の問題点の根本を見抜くことができるように自立した立場の人でありかつ信頼関係を構築することのできるコミュニケーション能力が豊かである必要がありますこの2つを兼ね備えるためには自分自身が人によく思われたいと思う依存心から解放されておりしっかりと今の自分自身に幸せと喜びを感じることのできる自己アイデンティティな確立した人自分らしく自信を持って生きることのできる人である必要があるでしょう

 

会社の管理職でもこの点は同じです

しかし 会社の場合は人事権を発動して強制的に改善を進めることができますが 教会の場合はそれができません

そもそも人の欠点を許しなさいという教えが優先してなかなか問題ある人に率直に話をすることができないでいるのが現実ではないでしょうか

小さな一つの課題を逃げてしまうと次の課題が怖くなりそのうちに正しい行いをしている人でも教会にいることが怖くなってしまうでしょう

 

だから問題のある教会員の現実をしっかり見ることが大切なのです

ここが問題であると自立心を持って両目でしっかり見据えることが必要です

自分が何もしないくせに相手の粗探しをするということを避けるのはもちろんですが恐怖のあまり戦うべきことから逃げてしまうということからも立ち向かわなければなりません

 

一方で問題のある人の背景、動機の理解に努めます

まず相手の立場に立って傾聴することが必要です

①批判しない②比較しない③自分のことを話さない④相手を変えてやろうという思いを排除する⑤いろいろな立場の人の一方だけに立たない⑥自分は一番低いものだと思うということが大事だとある本に書いてありましたこれは私も良い方法だと思います

そして信頼関係を築いた上で急を要する場合でも最初の12回30分の話し中で相手を批判しない最も大切だと思うことを 12点 伝えます 勇気と愛を持って率直に これから相手長い付き合いを行うつもりで そして改善のためには支援すること約束するつもりで話しますこれを話すことができればほぼ問題は解決したと言って良いでしょう

 

問題はこのことが良い方向に進捗しない時です。七回七十倍するまで許しなさいとイエス様はおっしゃいましたが同時に訓戒せよともおっしゃられています

ある程度の時間が過ぎ硬直状態が続き周囲の人が悲しみのうちにいる状態が長く許容できない状態が続くなら私は個人的に相手の人に教会を去ってほしい旨を伝えてしまうことでしょう。

裁く権利があるのかと批判される苦しみよりも愛する者が苦しむ姿を放置する無責任の苦しみの方が勝ると思うからです

相手の課題が相手の責任に帰っていく範囲なら放っておけます。しかしこのことで被害を受けるのであればそのことを防御する必要があります。

相手に去ってくださいと言いながらその後相手への憎しみを持たないのと、相手に何も言わないでかえって逆に相手を憎く思ってしまうのとはどちらがいいか。

 

私は教会でまだこのような経験をしていません

そして正直にいうと、前記の考え方でわたしはイエス様の前に自信をもって立つことが出来るのかと問われたらうなづいて下を向いてしまうのです。

そして本当は今想像するこのような展開を超えた導きがあるのかもしれません。

このような自分の超えられない壁を通り抜けることこそが神様の望まれていることなのかもしれません。

今わたしは本当の意味で自分と人とを受け容れるということを理解しようとする環境に立たされているのかも、それが私の本当の課題なのかもしれません。

教会はなぜ小さくなってはいけないの ?~僕らはもう小さくなるのを何度も経験している

久しぶりにブログを再開します。

一度中断したものは引き継がずにリニューアルして再開することにしました

タイトルはクリスチャン 日記 本当はこう思うんです です。

日々が思っている壁のようなものを乗り越えるために自分自身の頭を整理してみたいと思います

お時間のある方お付き合いください

 

第1夜 教会はなぜ小さくなってはいけないの ?」

 

ヨブ記 121

そして言った。

「わたしは裸で母の胎を出た。

また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主が取られたのだ。

主のみ名はほむべきかな。」。

 

口減、労働力減、経済縮小の中で昔ながらの拡大路線を唱える教会ってちょっと異常じゃないかと感じます

今ある奉仕を見直して礼拝と祈りに特化して後はしてしまったらどうか

牧師も役員もいなくなる前提で運営を考えてはどうかと思ったりします

例えば体の不自由や人間関係経済の困窮している中でお互い助け合わなければいけないと言いながら牧師や役員たちだけがあるいは特定の人だけが苦労していることはありませんか

その風景は全く町内会と一緒です

教会も町内会 も一番嫌なのは一生懸命やっている人に、的外れな批判をすること 。それなら一体どうしたらよいのかというような問題が山積みです

そしてその問題そのものの解決よりも人間関係の不信感に心が砕かれコミュニティを離れてしまうのです

 

私はこれを乗り越えるために自分がなぜ人の批判に心砕かれてしまうかを考えました

そしてそこには人によく思われたいというナルシムや人に依存してしまう心が関係していることが分かりました

好きなもの嫌いなものをはっきり意識して自分らしさを大切にしようと決めて歩み始めた時私は自由にされた思いがしました

教会の中で そんな忖度しないで話をすることができるようになったのは他人をしっかりと目を開いてることを行い勇気を持って周囲の人の現実を見極め騙されないように自立することを心がけたからでした

教会は今は小さくなる時だといえば自分はある程度批判にさらされ自分の責任をしっかり果たさなければいけなくなります

しかし無意味なことに振り回されないで自分らしく歩めるため生活の中に喜びが戻ってきます

そして自分が納得した信仰生活を歩むことができます

 

しかしここでもう一つ思いました。本当の課題は他にあるのではないか。

エス様が来て愛を示し下さったのを目の当たりにしたなら私の心は揺り動かされ泥まみれの中で喜びを感じることができるのではないか

つまり私の不満は私が霊様に満たされてないことによるのではないかと

私の祈りの課題は聖霊様に満たされることとなります。

そして 小さくなることを受け入れつつ必要を熱心に願うことです

これは小さくなるべき時に頑なにこれを拒否して大きくなることを求めそれが信仰熱心であると勘違いすることを防ぎます

小さくなることを受け入れて奉仕者が疲れてしまうことを防ぐのも愛だと思います

そして一方で必要を満たしてくださる神様に知識と知恵と必要なもの一切を願うことも愛だと思います

 

一つ私は思わされたことがありました

困窮してる人が教会が無くなって困るのは 具体的な支援がなくなるからではなく 愛の交わりが失われるためなのだと

困窮してる人が具体的に必要なものを得るための壁は実はそんなに大きくない

実際には心のあり方と視野を広げるための壁が大きいのだと思います

 

私の父は自分の親の財産をあてにする人でした

自分の権利を主張するくせに自分の義務は果たさないようなタイプです

そのような人が心を開いて多少高齢になっても自分で働き不満を言った内の半分の期間だけでも働きさえすればどんなに 周囲の人は迷惑を被らなかったでしょう

そればかりでなく自分自身も文句を言うことなく自分の人生に幸せを出せたことでしょう

 

再びいます

愛は全ての富の源泉だと思います

そして聖霊を受ければ全てのものは前進すると信じています

そしてそのためには私の目を開く必要があるのだと。( つまり 視野を広げる。)

高齢になればなるほど 自分の考え柔らかく保つことが必要なのだとそうすれば教会が小さくなっても幸せに生きる方法を見出すことができると思いました

 

 

 

 

 

「組織の風通しが悪く、ぎくしゃくしてくると、隣のチームの困ったことにも目をやらない」日本ホーリネス教団工藤良一牧師”こころのごはん”から今日も力を得る


「わが愛する者はわたしに語って言う、「わが愛する者よ、わが麗しき者よ、立って、出てきなさい。」」雅歌2-10

 

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」ピリピ3-13~14

 

町内会や色々なグループでの奉仕をしようかと悩むことがあります。

何かが整ったときに、次に進むということはある意味簡単かもしれません。

しかし何も整わないうちに進むということは、大抵の場合尻込みをしてしまいます。

自分の気持ちが、あるいは周囲の気持ちがすべて整うのを待っていると、何一つ前進できないかのように感じます。

しかしちょっと待ってください。

神様の用意してくださる道は無限の可能性を示しています。

 

自分が想像しないこと、不可能と思っていたことが覆されるような道、自分の成功の定義が間違っていたなどに気が付くこと、視野の拡大と転換が閉塞していた人生を大きく変えることなど日常茶飯にあるのです。

まずできないと思うことを正直に告白しましよう。

その時環境がとか他人がとか外側の影響を主語にしないで、わたしという言葉を主語にしてみましょう。

わたしがそのことをやりたくない、わたしが悩むのは嫌だ、わたしはそのことに向いていないと思うなどです。

しかしその次に、逆にこの範囲だったらできるということを、考えてみましよう。人付き合いは苦手だけど、私の得意な事務の分野だったらできる、遠距離で物理的制約があるから、インターネットの交流をしたいなど具体的にイメージするのです。

仕事を担当するなど、俗人的に考えるのではなく、分野ごとに考え、担当を組織や班の領域で考えるのではなく、作業の種類で考えるのです。

そうすると自分ができる仕事が見えてきます。

 

そのように個々人の得意分野を生かす取り組みは、良好なコミュニケーションのあるグループでは自然に発生しますが、組織の風通しが悪く、ぎくしゃくしてくると、隣のチームの困ったことにも目をやらないで、出来ることをやらないですませようとします。

こでもうお分かりかと思いますが、やりたくないと思う一番の理由は、責任を負うということと、失敗したときに自分が負う批判を受け止めることが出来ないということが原因です。お互いが成長し、ごめんなさい、ありがとうが素直に言える風通しの良い環境を作ること、メンバーの信頼関係を構築することが一番の課題です。

これは一朝一タにできることはありません。10年がかりで作り上げるような課題です。しかし完成を待たずとも、 このビジョンを共有しみんながこの方向に歩みだしていると実感できるようになるだけで、 メンバーに勇気と希望が湧いてきます。

そうです、目指すべきゴールのイメージが出来たら、カが湧いてくるのです。

そして、先ほどまで不可能と思っていたことが、出来るようになると確信を持てるのです。

 

この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。

*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。

工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。

「「自分を捨て」とは、自分らしくない他人の目に好印象に映る演出をもうやめなさいということです」日本ホーリネス教団工藤良一牧師”こころのごはん”から今日も力を得る


「あなたのあとについて、行かせてください。わたしたちは急いでまいりましょう。王はわたしをそのへやに連れて行かれた。わたしたちは、あなたによって喜び楽しみ、ぶどう酒にまさって、あなたの愛をほめたたえます。おとめたちは真心をもってあなたを愛します。」雅歌1-4

 

「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」ルカ9-23

 

有名なルカ9-23の聖書個所は、イエス様が自分は長老、祭司長、律法学者たちに殺されて三日後に蘇るとおっしやった後に言われました。

また来る主の栄光を見る時にあなた方の地上での行いが問われるとおっしゃいました。

ついていく目標は将来来る神の国だとおっしゃっています。

そして「神の国を見るまでは、死を味わわない者が、 ここに立っている者の中にいる」(ルカ9-27 )とおっしゃっています。

 

エスキリストの復活は過去に既に起こった事実です。

このことを信じることが出来るようになったときに、それ以降のこれから起こるであろう未来の希望が一気に心の中に押し寄せてきます。

あらゆる疑問もこの復活の理解によって、信じるに足る確かな約束として次々に確信へと変化していくのです。

 

それはあたかも登山の途中で、視界が急に開けて、自分の想像をはるかに超える高さまで登ってきたことを理解するのに似ています。先が見え始め、今まで重かった足取りにもう一度力がよみがえってくるような感覚です。わたしは高きを目指して確実に上っている。その先の頂上は、決して実現不可能な道のりではなく、今までの敬虔な歩みを重ねることによって一歩づつゴールに近づいているという確信が与えられます。

わたしと神様との関係は第三者が人ることのできない神聖なものです。

 

だから勇気をもって今日、再び歩みだすことを決意するべきなのです。

ルカ9-23の聖書個所が与えられるのは偶然ではありません。

それは今日気が付きなさいという合図です。

そして日々自分の十字架を負うてとあるように、自分らしさを失わないで、ついてきなさいということなのです。

これはとても大事なことです。

エス様はあなたの過去を認めてくださっているだけでなく、ほめてくださっているのです。「自分を捨て」とは、自分らしくない他人の目に好印象に映る演出をもうやめなさいということです。

「日々自分の十字架を負うて」とは、他人の十字架を負うのではなく自分の課題に正面から向かって日々克服する努力をしなさいということです。

「わたしに従ってきなさい。」とはついてきたいと思う気持ちを確かめてからにしなさいとおっしゃっています。

 

そして神の国を見るまでは死を味わわない、永遠に生きておられるお方が、わたしたちをいつも応援しています。

「これまでのあなたも意味があり大切な存在、そしてこれからのあなたも大切な存在、山の頂まであと少し、わたしが共にいるからしっかり歩みなさい」と、もう少しの先に十字架におかかりになさろうとしているイエス様が、今もお語りになっているのです。」

 

この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。

*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。

工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。

「トラブルメーカーの完全主義者を、責任あるマネージャーのポストにつけてはいけない」日本ホーリネス教団工藤良一牧師”こころのごはん”から今日も力を得る


「人の悪が彼の上に重くても、すべてのわざには時と方法がある。」伝道の書8-6

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」箴言19-21

 

自分の思い通りに物事が進まないと不機嫌になる、その原因を他人に見出し深く干渉していく。

このような事態は完全主義者の周りに良く起こることです。

完全主義者はしばしばトラブルメーカーになることが多いです。

彼らは基本的に他人の目に自分がどう映っているか、自分がいかに立派に思われているかが最大の興味の対象です。

動機がこのような具合だから、相手の悲しみや、痛みには無頓着です。更にずるがしこい人の悪だくみも見破る力がないので、簡単に騙されてしまいます。動機が人にどう見えるかを気にしながら、いつも自分が完全あるかが、気になってしようがない状態ですから、失敗を極端に恐れます。

 

仕事は普通60%程度の完成度で、みんなの意見を取り人れながら段々と完成させていくやり方が一番早く現実的だし、達成感を仲間と分かち合うことが出来るのですが、この場合の完全主義者は100%の完成度を目指して、実に綿密に計画的に仕事を準備します。

しかし人間の考えることは限界がありますから、大抵ほころびが生ずるのが常です。

その時に自分の失敗を認められれば救いがありますが、他人に責任転嫁をしたり、力業で自分の計画に固執するものですから、仕事が完成するわけがありません。

人に協力を求めなければならない時でも、プライドが邪魔して「なんで自分が頭を下げなければならないのか」と言ってしまうのです。

「かんばっている人が報われないのはマネージャーが悪いからだ、社会が悪いからだ」と悪態をつきますが、そもそも上司は完全主義者の提案をダメ出ししているケースが多いのです。

それでも自分の信念に固執して推し進めただけでなく、失敗した責任を他人に押し付けるエゴ丸出しの人が完全主義者です。

 

このような人を責任あるポストに起用してはいけません。

組織が病み、それまで培ってきた信頼関係がずたずたになります。

基本的に完全主義者は自分で責任をとれない人間です。

そしてその周りには一見人当たりの良いずるがしこい自分で責任を取りたがらない人が集まってきます。

仲の良い人同士ではネガティヴなフィードバックがなされず、すべて悪いのはグループ外の人間になります。

特に上司は世間の常識を守るように言動を制限されてますから、彼らの格好の餌食になります。

このような事態になったら一刻も早く、人事と相談し完全主義者を責任あるポストから外す算段をするべきです。

人事異動と指導は両輪の輪です。

人事権のない者の意見など誰も聞かないと悟るのがよいです。

自分がその人の仕事を代わりに負ってまで、困難な人事をやり遂げる覚悟こそが、指導の際の一番の力となります。

 

この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。

*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。

工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。

「当たり前のように与えられているもので最も気が付かないのが、近しい人のやさしさです。」日本ホーリネス教団工藤良一牧師”こころのごはん”から今日も力を得る


「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである。」伝道の書7-3

「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」Ⅰコリント15-10

 

今当たり前のように与えられているものに気が付かないものです。

家に帰った時明かりがついていること、食事が用意されていること、衣服が洗濯されていること、寝る場所があること、更には家族が生きていること、歩けること、目が見えること、聞こえることなど次々に思い浮かぶのではないでしようか。

静かに考えればこのように思い浮かぶのですが、日常の喧騒の中で過ごすと、効率を求めるあまり、出来て当たり前という考え方が支配します。

毎日正常に思い通りに進むのが当たり前で、そうでなければ怒りがあふれてしまうという人は、一度自分の環境が他人との比較や他人によく思われることに支配されていると考え直した方がいいです。

その根本は自分が自信がない、自分らしく生きることに魅力を感じないなどの問題を抱えているはずです。

本当は戦うべき敵が目の前にいるのに、それと戦わず、代わりに弱い者に矛先を向けている可能性があります。

 

話を元に戻しましよう。

当たり前のように与えられているもので最も気が付かないのが、近しい人のやさしさです。

人間は優しい人には次から次に要求するくせに、ずる賢い悪だくみをするような強面の人には逆らいません。

こうして優しい人を食い物にする人は、自分の周りに質の悪い人ばかり集まるようになり、やがて自分が食い尽くされて自滅してしまう運命にあります。

その時初めて誰が自分のことを思って助けようとしていたかを理解することが出来ます。

① イエス様のことを気にかけるようになる。

②おっしやったことを自分の頭で考えてみる。

③そしてそれを日常の生活に当てはめて、じぶんの過去を振り返ってみる。

④そうすると自分の立ち位置が大きな地図のどの位置にあるのかということが分かるようになる。

⑤そして自分の歩むべき方向性がはっきりと示される。

⑥人生の歯車が良き方向に回り始め、あらゆることが光をもって与えられていることに気が付く。

⑦そして日常のいたるところに神の奇跡がなされていることに気が付く。

⑧奇跡は繰り返され再びイエス様のことを考える。(再び①に戻り新しいステージでの気づきが生まれる。)

この地図を与えてくださること、そして日常の生活の中に奇跡をもたらしてくださることに気が付くことこそが、空しさを退け、生涯充実して生きるための最も効果的な方法だと思うのです。

 

この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。

*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。

工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。

 

「満足のいく自由を得るほどお金は手に入らない、しかし信仰を与えられて神様の無限の愛に満足の人生を送ることはできる。」日本ホーリネス教団工藤良一牧師”こころのごはん”から今日も力を得る


「たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。」伝道の書6-6

「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」マルコ8-36

 

毎日生きていくのに必死です。

今生活に困窮しているのに、やりかたが間違っているとの指摘にとどまるのは酷な気がします。

しかし世の中は弱者に手加減しません。

だから、苦難の中にある人は、このような経験を通して、お金こそが最高の神であると怒りを込めながら信じ込むことになるのです。

恨みと復讐を込めて、お金を貯めることに専念する。

そのことのためにはあらゆることを犠牲にして、肉親や友人も信用しない人生を歩みます。

このようなときに神の愛に気が付くのは、まさに神様対人の一対一の関係の中で与えられる奇跡です。

 

お金で自由を買えます。

お金で人の心も買えます。

お金で憎き敵を撃退することもできます。

しかし圧倒的に多くの人は、自分が満足する自由を得るのに十分なお金を得ることは出来ません。

そこで最も効果的なお金の使い方を考える必要があるわけです。

最も自由を得る、最も人の心に影響を与える、最も敵を撃退することのできるコスパの良いお金の使い方を考え抜いたときに、もう自分の考え方を変えなければやっていけないと気が付くでしよう。

 

遅ればせながら、今から間に合うだろうかと不安になっているとき、そこに神様の声が響きます。

「あなたは頑張る必要はありません。自分の心に素直に、ありのままで生きればよいのです。」

「その重い荷をわたしにゆだねなさいとおっしゃいます。」

 

人には一回目に感動したことにも慣れて、二回目はもうそれでは満足できないという特性があります。(限界効用逓減(げんかいこうようていげん)の法則= 1回あたりの満足度の大きさがだんだん減っていくこと)

だからお金で永遠に満足を得ることは無理なのです。

しかし、もしイエス様の愛に満足を感じるとしたら、一回目の時より、二回目のの愛の方が繰り返された分だけ強く心に残ります。そして繰り返しこの奇跡が重なるごとに喜びが加速度的に増えてくるのです。

お金のように尽きることはありません。イエス様の愛の奇跡は無限だからです。

そしてもはやこの地上の裕福な暮らしにこだわりがなくなってしまいます。

お金持ちだろうと、そうでなかろうと、現在の必要が満たされる感謝の日々を送るときに、恐れは消えて、希望の道に光がさすことを感じながら、死ぬまで前進し続けることが出来ます。

神様はこのような人の必要を満たし続け、必要なお金を与え続けてくださいます。

 

この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。

*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。

工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。