しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

どうしても心を通わせられない人がいる、その時

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「それは、わたしたちが一つであるように、らも一つになるためであります。 」

ヨハネ17-22

 

どうしても心を通わせられない人がいる。

一致をしろと言われても、心を共有できる要素がない。そんな時に教会の牧師先生から「 愛と寛容の心を持って一致しなさい」と説教されると、自分は罪の意識にとらわれて心が重くなってしまいます。

 

私は聖書の言葉というのは、ある一方の強調される考え方があれば、全くそれとは逆の考え方の御言葉もあると感じています。 だから自分の都合の良い聖書の言葉が示された時、あまりにも喜びすぎてそのことに邁進しすぎないように注意する一方、逆に自分にとってネガティブな 御言葉が出たとしても、バランス感覚を持って全体の中で自分の位置づけを捉えるようにして、客観的に自分の弱さを見るようにしたいと心掛けています。例えば親子関係非常に苦労をなさってる人が、「 父と母を敬いなさい」という言葉を示されて、自分は何て親不幸なんだと思い、もう一度その親元のところに近づいていくということは無条件に喜べることではありません。ある意味せっかく成長の段階で回復が与えられたのに、もう一度戻りして破滅の道に戻ってしまうかもしれないのです。ですから説教の言葉の中で示されている真理の二面性ということを意識することは大切だと思います。

 

話題を元に戻すと、一致するということは逆に一致できない面もあるということです。

そしてどの部分は一致して、どの部分は相手を尊重したまま異なったままで放っておくことができるのかということが不明確であると、自分の心が不安になってしまうのでしょう 。また、クリスチャンに対して言ってることと、あるいは全く信仰のない人に対して言ってることの区分も大事です。

 

まず信仰のない人に対して一致すべきかどうかを見極めるには、相手の自由を尊重する、しかし自分被害が及ぶ場合にはそれを抗議する、そしてそれが改善されない場合には相手から離れるという自分に与えられている自由を行使することが大事なことと思います。この世の法律は個々人の自由の行動を妨げないことを考慮しつつ、他人に被害を及ぼす行為について、最低限の制約を設ける思想で作られていると聞きました。そしてその思想は、聖書の考え方を発展させたものだとも聞きました。

一方クリスチャン同士の問題であれば、共通した信仰があるわけですから、その形をより発展させるためにの実践ということが必要になります。この相手に対して心地よい言葉だけをかけるのではなく、しっかりと向かい合って本質的な問題を解き明かすということが愛の本質だと思うのです。つまりネガティブフィードバックを愛を持って語ることができる人が、イエス様のお語りになっている、私たちの行うべき一致のための行動だと思うのです。

 

そのことができるようになるためには、自我の確立と課題の分離がしっかりと できてないと難しいと思います 相手の領分と自分の領分の区分けがしっかりできており、このことは相手の課題であり、また別のことは自分の課題であるとしっかりと認識し、自分の課題は努力して改善するという態度を示しつつ、相手の課題について、もし自分が神様から示されたのであれば 勇気を持って相手に心を開いて伝えていくことこそ、イエス様の語る 一致ではないかと思うのです。もしそのことを行うことで の間柄がより険悪なムードになったとしても、お互いの存在を押しのけることなく、たとえお互いに口をきかなくとも同じ教会に居続けることができるならば、そして自分の本心をしっかりと誠意を持って相手に伝え続けるならば 、一致を保ってるということが言えるのだと思います。このことは通り一遍の表面的な心地よい言葉で過ごしている関係よりも、よほど高い次元の一致が実現できてるのだと思います。