イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従が
って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
ヨハネ8-12
光と闇の戦いは、神と悪魔、善と悪の対立を象徴しています。キリストの降誕時、闇は深かったが、キリストは十字架の復活によって罪と死と悪魔という闇の三位一体 に打ち勝ちました。
光は太陽や月がある前から天地創造する最初の3日間を照らし続けたという説明を聞いて驚きました。太陽より輝く光とは何か。 全く想像もつきません。光とは 何かを調べるうちに、シャカイナグローリー という言葉に出会いました。神の臨在が人間に知覚できる現象となって現れたもの。それは光 、火、煙、雲、雷、雹、角笛の音などがあるということです。例えば出エジプト記 に記されている天幕の上の雲の柱や夜を照らす火などはシャカイナグローリー と呼ぶことができるとのことです。
私はこの言葉をよく知りませんでしたが、この言葉に出会って大きな衝撃を受けました。物理的な光を超えてあらゆる闇を打ち砕く光( =シャカイナグローリー)が存在する。そしてそれは私たちの心の中に宿ることができるというのです。シャカイナグローリーとしてイエス様はこの世に生まれてくださいました。そして十字架にかかり、復活して私たちが永遠の命を持った時に住む家を準備してくださっています。その間地上にいる私たちのためにイエス様は聖霊を送ってくださいました。この聖霊は私たちに光を見させることができないでしょうか 。パウロが光で一時目が見えなくなった程の光を、私たちは見ることはできないでしょうか 。
私は今どうしようもなく喜んでいます 。現実に眩しい光を見たわけでありませんが、 心の中に光が輝いているのを感じます。私に従ってくるものは闇の中を歩むことはないとイエス様はおっしゃいます。親子関係から始まり、その延長で社会生活を送ったため人を恐れながら生きることによって培われた不安の心は、よりその方向を強め世の罪に染まり、周囲に悪賢い人々を集めました。世の中の知恵は、カモネギを背負ったような心悩む人にとっては、自分を搾取する人々を喜ばすことにしかなりません。そのために目覚めることが必要ですが、その光は様々なきっかけで生まれます。ある時は 人間関係の決定的な失敗であったり、ある時は良き読書の機会であったり、また自然を見て心を新たにされることかもしれません。
しかしそれらが働き、イエスが復活されたことに気がつかされる時、私たちの信仰の殻は一気に剥がされます。私の場合はイエスを裏切った弟子たちが、再びイエスの伝道のために命をかけて世界中に飛び立って行ったことの聖書中の記事を見て 、このようなことは生き返ったイエスに出会ったことによってしか起こりえないと確信したことによるのです。つまり聖書中に弟子たちの最も恥ずかしいイエスの否認が記されていたために、それと同じように人間の裏切りや憎しみを経験することによって、弟子たちと同じ気持ちになることができたのです。そして私は思いました。 イエスは確かに復活した。人間から見て一番不合理な復活を信じたのだから、聖書の他の書かれていることも全て信仰するに至るに違いないと思ったのです。
ですから復活を信じさせてくださった聖霊様の働きも、そのきっかけを作った人間関係の困難を経て 読書をきっかけに与えられた気づきも、私にとってシャカイナグローリー と呼べる光だったに違いありません。