「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」
エレミア29-11
日常の小さな出来事の積み重ねの中で、時折それらに混ざって大きな転換を起こすような出来事に遭遇することがあります。人は黙っていると身近な不幸にしがみつくものですから、真実の大きな労力を要する変化は、それが本当の幸せに結びつくのものであっても、受け入れがたいものに見えます。
自分らしさを取り戻す生き生きとした幸せを手に入れるために、人生を賭けた大きな戦いをしなければならない時があります。私の尊敬する加藤諦三さんの本の中には、そのような血を流すような戦いとなるのは肉としての親離れ、そして世間の目からの親離れなのだと言います。自分の能力と目標を一致させ、自分の身の丈に合った 地道な努力を一歩一歩積み重ねようとする時、人生の新たな方向への一歩が始まり、 カチャッとその歯車が回り始めるのが聞こえます。
まず自分の幼少期から青年期、そして現在に受け継がれている自分の恐怖や不安とは何かを知ることが大事です。私の場合はそれは承認欲求と完全主義でした。 力ずくで子供を抑える親に育った子供は、この傾向が強いそうです。
次に自分の親子関係から引き継がれる人間関係は、不幸の原因であったのでこれらから離れる必要があると認識することです。
3番目に今までに依存していた存在に別れを告げ、自立のために自分がなすべき課題を明確にして自分らしい幸せの道のためのビジョンを描きます。
4番目にこれらビジョンを実現する過程で自分は今どの位置にいるかという現実を見極めその歩みを強めます。また始めるための準備を行います。
現実に自分は大きな転換点にいる、それを乗り越えるための困難な道を私は耐えることができるという確信が、日常の鉛のような世界を一変させることでしょう。4番目のステップを歩む充実した喜びを持つものは、誰に指摘されなくても自立性を持って、自分の言葉で自分のやりたいことを実践しようとします。この段階になると人の批判が怖くなくなるので、加速度的にその歩みは力強くなるでしょう。目が開かれることでかつて嫌いだったものを見直すことができるようになるかもしれません。キリスト教会にいる人が教会を離れることは罪人のように感じることかもしれません。いや、そのように思う人こそ今までどんなに守られた安心の中にいたかを知ることができるでしょう。 しかし、自分で考えることや自分らしく生きることを放棄したその生き方は、神様の望んでおられることではないのです。教会というちっぽけな枠にとどまることを優先して、自分や周囲の人々との交流を誠に豊かにするための歩みを止める必要はないのです。アブラハムは信仰によりその場を旅立ったという言葉を聞いて、自分から離れ るのではなく、教会のために熱心に尽くすことだけを想像するのは中毒とも言える状況ではないですか。そうではなく、開かれた世界で旅立ちなさい、あなたらしい生き生きと過ごせる環境はきっと世界のどこかにあるはずだと神様は背中を押してくださいます。その大事な人生のステージに立っていると確信した時、全てが動き出し、神の御業が力強く働くことでしょう。