「わたしとしては、みんなの者がわたし自身のようになってほしい。
しかし、ひとりびとり神からそれぞれの 賜物をいただいていて、
ある 人はこうしており、他の人はそうしている。」
コリント人への第一の手紙7章7節
教会に疑問を感じ、教会を離れたい、変わりたいと言うと、牧師から必ず言われることがあります。「 それは大変危険な状況です 」「 教会を離れたら霊的な死を迎えます」というものです 。相手が悪いのか、自分が悪いのかという狭間の中で、イエスキリストの体である教会が悪いはずがないという世間の目との戦いを繰り広げるのです。この考えから抜け出せず、頭がぐるぐる回り、うつ状態となり夫婦関係が壊れていくこともあります。
イエスキリストと家族の両方を取ることができる方法がいくらでもあるのに、教会=イエスキリストの図式をもとに教会を離れることができません 。
束縛を受ける者にとって自分の心と体を守る最後の砦が、その所属している組織や人から離れることだと思っています。
そして自分が大切にしたいと思うものが家族であれば、それを愛することを目指すことがキリストにつながることなのだと思うのです。
もっと 極端に言いたいと思います。 神が結びつけたものは人が離してはならないという理由で、離婚を踏みとどまってる人が多くいらっしゃると思いますが、そのことで子供に深刻な影響を与えているなら離婚をした方が優れていると思います。お金のために我慢して結婚生活を続けるならば、最低限二十歳になった子供は自由にさせてあげるべきです。結婚した子供の家に世話になるというのは子供との信頼関係があって初めて成り立つこと、もしお金が理由で我慢して子供の苦労を黙認するなら、子供との信頼関係は諦めるべきでしょう。
教会を取るか家族を取るか、お金を取るか愛をとるか、というのは同じテーマのように思います。自分で信仰を持って教会につながるというのは素晴らしいことだと思います。しかし信仰を持って教会を離れるということもありえるのではないかと思うのです。神様が、人のことよりまず自分の課題に向き合いなさいというのは、神様の導きであるということが実に多くあるのではないか、自分の直すべきことを放っておいて、人に神の道を説き、迷惑を撒き散らすことが多いのではないでしょうか。そのために自分一人が、あるいは夫婦が、静かに神様と向き合うために、教会を離れるということが必要な場合がないでしょうか。
パウロ・コエーリョの小説に「 ピエトロ川のほとりで泣いた」というものがあります。修道院を逃げ出した青年を神父が追いかけてやがて向かい合う時が来ます。その時神父が「 あなたの愛する人を幸せにしなさい」と二人の未来を祝福するのです。
そもそも教会を離れることが良いか悪いかと論じてる時点で私は愛から離れているのだと言えます。
誰も止めることが出来ない、命をかけて守りたい、誰かの目を気にして行動を制限する事など思いもよらない状態で突き進むこと、それはただ愛のゆえに教会の奉仕に熱心な信仰熱きクリスチャンと引きを取らない愛なのだと思います。