久しぶりにブログを再開します。
一度中断したものは引き継がずに、リニューアルして再開することにしました。
タイトルはクリスチャン 日記 「 本当はこう思うんです」 です。
日々私が思っている壁のようなものを乗り越えるために自分自身の頭を整理してみたいと思います。
お時間のある方、お付き合いください 。
第1夜「 教会はなぜ小さくなってはいけないの ?」
ヨブ記 1章21節
そして言った。
「わたしは裸で母の胎を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。」。
人口減、労働力減、経済縮小の中で、昔ながらの拡大路線を唱える教会って、ちょっと異常じゃないかと感じます 。
今ある奉仕を見直して、礼拝と祈りに特化して、後は無してしまったらどうか。
牧師も役員もいなくなる前提で、運営を考えてはどうかと思ったりします。
例えば、体の不自由や、人間関係、経済の困窮している中でお互い助け合わなければいけないと言いながら、牧師や役員たちだけが、あるいは特定の人だけが苦労していることはありませんか。
その風景は全く町内会と一緒です。
教会も町内会 も一番嫌なのは、一生懸命やっている人に、的外れな批判をすること 。それなら一体どうしたらよいのかというような問題が山積みです。
そしてその問題そのものの解決よりも、人間関係の不信感に心が砕かれ、コミュニティを離れてしまうのです。
私はこれを乗り越えるために自分がなぜ人の批判に心砕かれてしまうかを考えました 。
そしてそこには人によく思われたいというナルシズムや、人に依存してしまう心が関係していることが分かりました。
好きなもの、嫌いなものをはっきり意識して自分らしさを大切にしようと決めて歩み始めた時、私は自由にされた思いがしました。
教会の中で 、そんなに忖度しないで話をすることができるようになったのは、他人をしっかりと目を開いて見ることを行い、勇気を持って周囲の人の現実を見極め、騙されないように自立することを心がけたからでした。
教会は今は小さくなる時だといえば、自分はある程度批判にさらされ、自分の責任をしっかり果たさなければいけなくなります。
しかし無意味なことに振り回されないで、自分らしく歩めるため、生活の中に喜びが戻ってきます。
そして自分が納得した信仰生活を歩むことができます。
しかしここでもう一つ思いました。本当の課題は他にあるのではないか。
今、イエス様が来て愛をお示し下さったのを目の当たりにしたなら、私の心は揺り動かされ、泥まみれの中でも喜びを感じることができるのではないか。
つまり私の不満は私が聖霊様に満たされてないことによるのではないかと。
私の祈りの課題は聖霊様に満たされることとなります。
そして 小さくなることを受け入れつつ、必要を熱心に願うことです。
これは小さくなるべき時に、頑なにこれを拒否して大きくなることを求め、それが信仰熱心であると勘違いすることを防ぎます 。
小さくなることを受け入れて、奉仕者が疲れてしまうことを防ぐのも愛だと思います 。
そして一方で、必要を満たしてくださる神様に、知識と知恵と必要なもの一切を願うことも愛だと思います。
一つ私は思わされたことがありました。
困窮してる人が教会が無くなって困るのは 、具体的な支援がなくなるからではなく 、愛の交わりが失われるためなのだと。
困窮してる人が具体的に必要なものを得るための壁は実はそんなに大きくない。
実際には心のあり方と、視野を広げるための壁が大きいのだと思います 。
私の父は自分の親の財産をあてにする人でした 。
自分の権利を主張するくせに自分の義務は果たさないようなタイプです。
そのような人が心を開いて、多少高齢になっても自分で働き不満を言った内の半分の期間だけでも働きさえすれば、どんなに 周囲の人は迷惑を被らなかったでしょう。
そればかりでなく自分自身も文句を言うことなく、自分の人生に幸せを見出せたことでしょう。
再び言います。
愛は全ての富の源泉だと思います。
そして聖霊を受ければ全てのものは前進すると信じています。
そしてそのためには、私の目を開く必要があるのだと。( つまり 視野を広げる。)
高齢になればなるほど 、自分の考えを柔らかく保つことが必要なのだと。そうすれば教会が小さくなっても幸せに生きる方法を見出すことができると思いました。