しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

自分の罪のためにイエス様は十字架におかかりになったということを、自分の言葉で説明したいと願った

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ザ・クロス マックス・ ルケード いのちのことば社

 

クリスチャンは誰でも、「イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかってくださり、私に永遠の命を与えてくださった」と告白する。

 

この告白はそれぞれの人生の歩みの中で一人一人 異なった道筋を持って与えられた貴重な宝である。 しかし正直に私は告白すると、その順番が多少普通のクリスチャンとは違っていたかもしれない。私はまず初めに、教会に集う人々に魅力を感じて、その人々が愛している聖書の言葉が心地よく感じられた。それは力を持つものだと思った。クリスチャンになり、結婚をしてしばらくすると様々な困難に出会う。そしてその困難を通して、そのような事態になっても、もう一度イエスキリストに回心して従っていったパウロやペテロ達は本当に復活したイエスに出会ったのだと確信するに至った。復活を信じれば天国、あるいはその他の約束も全て素直に受け取ることができる。しかし、今一つ私に確信が与えられていないことがあった。それは私のために十字架におかかりくださったという一文へのこだわりである。歴史上の中で偉大な事業を成し遂げたという意味での十字架とか、神学的に罪を完全に許されたという解釈がなされたとか、そういう意味ではなく、イエス・キリストは私個人のことを認知して、私のために個人的に十字架にかかってくださったという揺るがない 確信をもう一度欲しいと思った。

 

そのようにしてこの本に触れた時、イエス・キリストが十字架におかかりになることを記録した聖書箇所の意味を、ある時はユダヤ人の当時の常識として、ある時はそれを現代人に置き換えた時の現実味を持って、またある時は、その時のイエス様のお気持ちを実にデリケートに説明して、霊性豊かにあらゆる集中力を喚起されつつ、自分にとっての十字架の意味を振り返らせてくれるのだ。

 

そして熱心に神様に祈らさせていただく時、当初の目的である私個人に対しての十字架の意味を真実に解き明かしてくださった。聖霊様は 私にマタイの福音書の箇所を示した。

 

王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの 最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

マタイ25-40

 

この個所は通常自分が最も弱きものに対して奉仕をしなさいという意味で捉えさせていただくことが多い。しかし今日私はこの箇所を読んで、私自身が最も小さいものであると思わされた。そしてその最も小さいが故に、イエス・キリストは私の顔や姿、髪の毛の1本でさえも全てを認知してくださっているのだと確信した。

 

このことの証拠は何か。復活が真実であるならば、その前に行われた十字架の贖いは真実でないわけがない。私は復活をまず先に信じた。だからそれに先立って行われた十字架は真実であると理解する。そして そのようにイエスがおっしゃってくださったのだから。繰り返すと私は復活をまず先に信じた。だからそれに先立って行われた十字架は真実であると理解する。そしてそのようにイエスがおっしゃってくださったのだから、私は十字架に自分自身の古い服(罪)を捨て、もう一度新しい服を着てこの世を精一杯生き、そして来るべき再臨に期待するものである。