しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

僕には力ある祈りはできないのかな?まてまて、自分と神様の気持ちは同じではない、だめだと思ってほめられることもある

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「彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。」

                               ルカ10-27

先日わたしは祈りで癒されたという経験をしました。

町内会のことで悩んでいたことを、牧師先生に祈っていただいたのです。

自分でどんなにかんばっても心がざわつくばかりでした。

それまで不安であった心が静かにされて、平安に満たされました。

何故かという理屈は説明できません。

しかしもう一度生きる勇気のようなものを確かに与えられたのです。

 

わたしは牧師先生の祈りのカのことを十分に理解してはいませんでした。

説教を聞いた時に ここはこう解釈すべきではないかとか、これはもっと別のたとえがいいのではないかと色々注文をつけるようなことをしていました。

 

もし仮にアウトブットが同じだとしても、そこに至る背景、そのことを話している人の人生が異なっていたとしたら、発せられる言葉に内在する霊の働きが大きく異なるなどということを分かっていなかったのです。

 

更に加えて言えば、日々の生活の中で様々な重荷を負っておられる牧師先生は、ただ重荷を負っておられるわけではありません。

イエス・キリストを仰ぎ見ながら、重荷を負うことを神様の前に価値あることだと認めて、その上で命を懸けて伝道なさっておられるのです。

だから簡素で実直な心に染み人る祈りが出来るのです。

 

では僕には力ある祈りはできないのでしょうか。

自分が安全なところにいて、余裕をもって流麗に語る祈りは実を結びません。

そして自ら進んで重荷を負って、祈りに磨きをかけようとしても無駄です。

人から見て素晴らしい祈りをしようとしてもむなしい結果に終わります。

祈る対象と自分が共感する、そして自分の思いが神様にとって喜ばれることなのかを考える。そうすると御心にかなった祈りになるのでしようか。

何かすっきりしません。

 

例えば絵を描いたとしましよう。

その絵は大変魅力的ですが、簡単に真似のできるシンプルなものかもしれません。

あるいは技巧的には問題のある所が多いものかもしれません。

しかし同じように真似てその絵を描いたとしても、

その絵の価値はオリジナルに及びません。

何故なら真似た絵の思いが作者の精神に遠く及ばないからです。

しかしもし真似る人が、その作者をリスペクトして模写をしたらどうでしょうか。

外見を真似るだけであっても、原作の精神を受け継いで見事な作品を創ったとはいえないでしようか。

 

もう一つのたとえです。長い間妻に愚痴を聴かされたとします。

こちらとしては良い解決策とか、共感とか意識しながら聴くのですがちっとも実を結びません。

ところがある日「早く終わらないかな」思いながらも、ひたすら何も言わずに長い時間聴き続けていたことがありました。

その時妻はこう言ったのです。「今日はあなたは本当に良くきいてくれた。ありがとう。」

 

わたしの言いたいのは、相手が望んでいることを理解するのは本当に難しいということです。

同じ様に神様が望んでおられることを理解することはむずかしいですが、

自分の思いを超えている神様という視点を忘れずに、もし神様が喜ばれるとしたら自分の心が納得していなくても、神様の愛を選び取るときに、豊かな霊が働くことがあるのだという事も同時に思わされました。