彼らが 問い 続けるので、イエスは身を起して 彼らに言われた、「あなたがたの中で罪
のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
「 神様を信じたものは救われる。 」「 神様を信じないものは救われない。 」という話と、「 謝ったら許す。」「 謝らなければ許さない。」という話は何が違うでしょうか。 前の話は神様と人という関係に対し、後の話は人と人との関係であることの違いがあるでしょう。
人と人との関係では「 さばくのは神である。」ということと、「 七回 を七十倍許しなさい。( 無限に許しなさい。 )」ということを神様はおっしゃいます。頭では理解できますが 、こんなことを実践できる人間がいるのでしょうか。
一方でこんな御言葉もよく引き合いに出さます。 「 否は否、しかりはしかり」というものです。「 目には目を、歯には歯を。」という御言葉も同じくらい出てきます。こちらの方は被害者の側が怒りを持って発言することが多いです。しかしよくこの言葉を聞いていると、自分が相手を強く罰するという意志が強く、それに賛同する人を多く求めている感じがします。そして 正しい手順を踏まずに短絡的に相手をやり込める 論調になります。このようなことがまかり通れば、この世の人間は全て殺されてしまうでしょう。
こうして見ると聖書にはある基準に従って相手を罰しても良いという旧約の基準があるにもかかわらず、 新約では( イエス様のおっしゃるには)そのことを慎重に無限に考え続けなさい、怒りに任せて刑の執行を行うのではなく、罪を犯したことを悔い改めに導き続けなさいとおっしゃっておられると思います。
法律に基づいて刑が執行される場合は、完全ではないにしても、比較的 正しいプロセスをたどることになると思います 。しかし 実は日常の生活の中で起こる不平不満の連続の方が、人間に深い影響を与える場合が圧倒的に多いと思います 。相手の心と自分の心の認識のずれがあった場合に、自分は重大に思っているのに相手が軽く考え、傷つけられるケースが多いのではないでしょうか。この他にも、心が物やお金、時間などに置き換えられることができると思います。相手に反省の色がない場合や、性格的な問題などの場合で、この傷つける行為が繰り返される時、人は相手に 憎しみを持ちます。これが爆発して破局を迎えるか、一方的な抑圧の中で心理的に病んでしまうこともあるでしょう。
その時、爆発もしない 、抑圧もされない唯一の方法として、あなたは自分の幸せを大事に考えなさいとイエス様はおっしゃっているように思うのです。憎しみを持った相手への最良の復讐方法は自分が幸せになることです。その手段として赦しなさいと言っておられると思うのです。自分の家族を殺した相手に積極的に握手をしに行きなさいと言ってるのではないのでしょう。被害者の方の傷が癒され、その憎しみを忘れるために、相手にとらわれるな、また離れなさいとおっしゃってるように思います。もちろん 罪を犯した人と、被害者の取りなしを行うことは素晴らしい働きだと思います。
一方で罪を犯した人がその謝罪のために相手に接触を求めることがあります。しかしその時大切なのは、大概の場合は、被害者はそのことから離れたがっており、あるいはもう忘れており、 今更と思われる行いは迷惑でしかないと知るべきでしょう。大切なことはイエス様が何回でも赦しなさいとおっしゃってる回数を心に刻み、実はこの御言葉は自分が罪を許す側でなく、罪を許される側だと気づいて、終わることなく悔い改めを続けることだと思います。