しあわせうさぎさんの決意

教会、職場の不安、困難の乗り越え方とは?

弱い者がより弱い者に憎しみを吐き出す。その行きつく先でイエス様がお受けになられた

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こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて 下さったように、あなたがたも

互いに 受けけいれて、神の栄光をあらわすべきである。

ローマ15-7

 

この箇所は互いに受け入れるということについて語っています。教会の中で異なる立場や意見を持つ人々が、共に生きる方法について示しています。この受け入れの原動力はキリストが私たちを受け入れてくださるようにと述べられています。キリストが私たちを受け入れ救ってくださったのは神の栄光のためであり、私たちがお互いにどのような関係を歩むのかは、実に神の栄光に関わっている事柄なのです。

 

パウロはどちらかといえば 聖書の教理に従って正しく歩んでいると自負しているユダヤ人と、その教えから外れた罪多き小さきものとしての異邦人を見て、正しく歩んでいる側に互いに受け入れなさいと言っているように思います。ユダヤ人と異邦人そしてローマ人とを比べれば、この世の考えからすれば一番はローマ人、2番ユダヤ3番異邦人となると思いますしかしローマ人もユダヤ人から見たら異邦人だと思いますので心のでは一番ユダヤ2番ローマ人=異邦人と思っていたかもしれません。そのような時に小さきものを優先するという教えを説くことはローマ人も積極的に受け入れますというメッセージにもなります。あるいはこの世の権勢に従うという意味で、ロー人を受け入れることを好印象で思われるきっかけになるかもしれません。しかしその後、クリスチャンはローマから激しい迫害を受け取ることになりますので、世の中は人間の思う通りにならないということでしょう。

 

つまり政治的な駆け引きではなく、 エス様が小さきものである私たちを入れてくださったことがあるから、私たちもそのように互いを受け入れるということが重要な動機になってることは間違いありません。私たちは自分がユダヤ人の側であると錯覚しがちではないでしょうか。私たちは自分の問題に正しく向かい合うことができずに、相手の問題を見つけて安心するという心理が働きやすい面を持っているのでしょう。

 

一つ寧に説明したいことがあります。幼い頃から虐げを受けた子供が、大きくなってからも親や周囲の人からの影響を受け続け、いつまでも自分の心を殺し続け、自立できない状態に陥ってしまう状況がある場合に、その人に向かって、直ちに互いに受け入れなさいと命令することは、その相手に対してそのまま重荷の中で死になさいと言ってるのと同じことだと思います。ですから、この言葉を発する側の立場として考えるべきことは、より多くの重荷を負ってるものが小さい者と対峙する時 、強いものは強さを誇ってはいけないということだと思います。 一方、弱い者は自分が救われる信仰の道をもう一度確認し、自分の課題に正面から向かい合わなければなりません。このことに到達するためには、実に多くの年月労力要することと思いますが、これを理解した時、急激に輝く光を得ることができるでしょう。これを聖書では救いと言っていますが、聖書を読んで信仰至り新たに歩み出すということは、多くの人が言っている通り、人間の技では無理なことなのです。

 

そのことを手に入れるためには、自分がどんなに周囲の人に搾取され虐げられてきたかという事実をしっかり認め憎しみを吐き出し、その上で、今後自分が歩むべき、 自分らしい人生の目標を与えられ、そのための課題を神様から示していただくプロセス( 順番)が必要なのです。 互いに受け入れるためには、自分の荷を負える位に成長しなければならない、その成長の過程で、自分の課題と向き合うために、正直に心の底を吐き出し、心の借金を精算しなければならないと思うのです。このように私たちは過去の憎しみや痛みを吐き出さなければ 先に進めません。

 

では普通どのような人に憎しみや痛みを吐き出しますか。自分より強い人に対してですか。そうではないでしょう。自分より弱い人に憎しみや痛みを吐き出すのです。そしてイエス様は「 最も小さきものにしたことは私にしたことである」とおっしゃいました。

憎しみの連鎖が行きつく先はイエス様なのです。

 


エス様は
過去も現在もそうした私たちの存在をご存じで、そうした上で十字架にかかってくださったのだと思います 私たちは憎しみと痛みを吐き出し、その上で「 私はあなたを愛する」というイエス様の言葉を悟った後に、自分の課題を正面から向かい合う時、自分の十字架を背負って エス様の後をついていくことができるのです。