もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに 属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
コリント人への 第一の手紙12-15~16
相手の問題点を見つけて優位性を見出し、 それを批判することで自分の心を満たすということを人はよくします。その課題が自分の迷惑を被っていることなのか、それとも相手と自分の考えが異なっていることなのか見極めることがまず必要です。頼まれてもいないことを口出ししようとするおせっかいな心は、自分の劣等感の表れです 。ある一面を強調してその他の相反する側面に目もくれず自分の意見を押し通すことは、自分の自信のなさの表れでしょう。
そのような心に陥った時、本当は自分の中に本質的な重大な問題が隠されているのではないかと疑うことが必要です。しかし人の常として本質的な問題に踏み込めば 踏み込むほど、そのことを認めることはできないものです。そこでもし公に自分の罪を表すことができるなら、神様が働いたと感謝すべきです。
この関連で周囲の人が傷ついているのを助ける意味で相手を攻撃するというものがあります。特に被害を被ってる側が弱い立場ならなおさらです。例えば1人の部下がもう一人の部下をいじめている時に、上司はしっかりと指導をしなくてはなりません。しかし現実にはいじめる側もいじめられる側もそれぞれに問題を持ってることはほとんどで、一方的に片方を問題だと決めつけることははばかれる時が多いでしょう。強いものが弱いものをいじめる時、 強いものを指導することは簡単です 。なぜなら強いものは理解力があるし、自己の改善もできるからです。 しかし弱いものの問題はなかなか簡単にはいきません。その場で助けられた時、相手が悪くて私は正しいという理解が強まってしまうと、自分の改善は必要ないものとして認知されてしまうからです。しかし本当は弱さがゆえに自分の意見をバランスよく、正しく捉えたり、伝えるということができないことこそ、大きな課題であると認知しなければなりません。
今ここで強いものと弱いものと言いましたが、強いものとは成熟した人で、弱い人は未成熟の人をイメージしています。強い人はいじめることなどほとんど必要としていません。本当は、いじめるということは弱い者同士、自信のないもの同士のトラブルということになります。
そのためには両者に肯定の言葉を述べつつも、トラブルの問題となったことについて対象を部分化し、 そのことについて 客観的に指導することが必要です。「 あなたのことを否定してるわけではない、しかしこのルールだけは守ってほしい。 」という風にです。このことを行うためには、日頃の信頼関係が大切であるということはよくご存知のことと思います。
職場で問題の人を排除することを「 干す」と表現します。新たな情報も仕事も与えないという、愛するとは対極にある仕打ちです。人事権を持ってる人間は、問題の人の仕事を取り上げることはできると思っています。一方問題の人は、この仕事は自分にしかできないと思っています。人を簡単に解雇できる環境では、「干す」ことが現実にできましたし、代わりの人を迎えることもできました。しかし実際の世の中はそんな環境はひと握りなのです。多くの管理者はギリギリの人員の中で、退職すれば人手不足で代わりの人も来ることなどないという状況にあります。 つまり現代 ほど、今いる人を辞めさせないで、いかに皆が一致して信頼関係を保ち、かつ問題点を率直にフィードバックするということを求められてる時代はないでしょう この聖書の言葉は理想論ではなく、管理者が自分の賃金に見合う働きをするということのための大切な自分の課題なのです。