「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、 これから流れ出るからである。」箴言4-23
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。」Ⅱコリント11-14~15
最初に決意したことを、変更することは如何にたやすいことかと思います。
熱心に現在の真実の課題を祈り求め、その課題が示されたときに、目の前に光が差したことを忘れたのでしょうか。
また死ぬほどに苦しみ、もう二度とこのような思いをすまいと思ったときに、奇跡のように与えられた解決策を、自分自身の努力で簡単に見つけられるとでも思っているのでしょう。
しかし一旦解決が与えられると、あたかも自分自身が天才のように思ってしまうのです。
わたしという人間はいったん成功すると、傲慢になり、他人の痛みを感じなくなり、極めて軽率な言葉を簡単にロ走ってしまうのです。
自分に酔った人間は如何に自分が素晴らしいかを誇示するために努力を始めます。
最初は少しだったのですが、やがてそれが段々と増長し、しまいには人生の目的にさえなります。
このような人は自分が他人にどう思われるかしか考えていないので、ちょっとおだてられると相手をよく見ないで、簡単に騙されてしまいます。
気が付いたら自分の周りの人はあなたのことをカモにするようなずるがしこい人だらけになり、身ぐるみを全部剥がされてしまうことになりかねません。
ですから自分というもののありのままの実力をいつも意識して、本当に自分が目指すべき課題に、謙遜に向かい合う必要があるのです。
若い人は、自分の課題に手を抜いて向かうと失敗します。
それが当たり前になると、更に目標が低い水準になり、今まで出来たことが、数年もすれば出来ないようになってしまいます。
そうして貴重な現在のポジションを失なった会社員を多く知っています。
これは実力を磨いて仕事ができることを目指さなくなって、スキルが低下して仕事を失ったということではありません。
そうではなく、今いる環境や周囲の人との信頼関係が築けなくなって仕事ができなくなってしまうということです。
一方で成功した年配の人は、今までの成功体験は自分の努力もあったかもしれないが、それだけでなく大きな助けや恩恵、幸福な環境があったからこそと考えてみる必要があります。今そのことに気が付かないと、小さな世界しか知らない偏狭な老害の人になって、成熟期に味わうべき人生の最も幸福な体験を失ってしまうことになります。
神様はわたしたちに幸せになってほしいと願っておられます。
もしそのことから外れそうな心が支配しそうになると、それを追い出すために神様は必要な新たな試練をお与えになります。
そしてそれを繰り返し経験することで、傲慢や狭い心を修正させてくださるのです。
この日記は日本ホーリネス教団大島キリスト教会工藤良一師のデボーションテキスト「こころのごはん」を読んだ感想を書いています。
*残念ながら現在心のごはんをインターネットで見ることはできません。
工藤良一師のプロフィールとともにこころのごはんをインターネットで見ることが出来るようにとお祈りしています。