およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になると鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。
ヘブライ12-11
義とは神の基準に従って正しい行動を取ることを指します。これは自分の努力ではなく、キリストの贖いによって与えられるものです。義は私たちの内面と神との関係が回復されます。
人生の鍛錬の時は当座などというものではありません。この苦しみが一生続く、そして回復の時などやってこないと思うものです。世の中の全ての人は自分よりも優れているし、自分は最も小さいものであるというように人生に失望する時がいつまでも続きます。回復の階段を上るという姿は当事者には全く見えないものです。自分はなぜ絶望の中にいるのか、自分はこれからどうやって生きていくのか、回復の道筋とはどのようなものなのかなど、具体的なことを考えれば考えるほど頭の中がグルグル回り、疲れ切ってしまいます。
自分の失敗が自分の考え方や行動のせいであると理解するためには、まず 正しく自分の立ち位置を知る必要があります。広い地図の中で今ここにいるということを正しく知ることが大切です。そもそもこのようにうつ状態になってしまうほど心が弱ってるあなたは、散々周囲の人々に利用され、搾取され続けてきたに違いありません。自分は騙されていると相手に批判的な目を向けるようになるためには、完全な神様の御手の中での幸福な休養が必要です。その後に、そのように落ちぶれたあなたの元から去っていた人々をしっかりと覚え、騙されていたという事実を受け止めるのです。
一方でそのような中で傍らにい続けてくれる人を、目を開いてしっかりとその顔を見て、命の温かさ、母なる思いを十分に感じ取ることです 。そしてそうなって初めて、自分は何と臆病者であり勇気がなかったということを反省するのでしょう。そしてあなたは裏切りを経験した後に再びその相手と和解することなど不可能だと確信するのです。
そうしてしばらく後に 聖書を見る時、イエス・キリストを裏切った、あるいは反逆していたペテロを始めとする弟子達、そしてパウロが再びイエスのために命をかけて伝道するのを読んだ時、イエス・キリストは本当に復活して弟子たちの前に現れ、傷ついた全存在を再び受け取っていただいたのだと確信することができるでしょう。 イエスの復活を確信すれば、その前に起きてきた私の罪のために死んでくださったという十字架の意味も、そして未来の天国の意味も大きな流れとなって迫ってくるのです。つまり苦しみや試練を通して人はイエスキリストの復活を信じるようになるのであり、その結果、神様と正しい関係を築くことができるようになるということです。
それまでの悲しみや恐れ、不安は将来の確かな希望に取って変わります。イエス・キリストの全てを信じる信仰は、日々の小さな戦いの勝利を通して鍛え上げられ 、信仰の勝利の経験がより大いなる上なるものを目指して前進させてくださるのです。日々の生活の中で、喜び、感謝に満ち溢れ、人々との交わりの中で聖霊の実と平和を実践させてくださるのは、もはや自分の努力は必要とせず神の恵みによると証することができるでしょう。