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黙57「黙示録21-22~22-6」スティーヴンス栄子オメガバイブルスタディー受講メモ

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今回のオメガバイブルスタディーは黙示録21章22節からです。


黙示録21章22節から25節、わたくしはこの都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である神であられる主と子羊とが都の神殿だからである。都はこれらを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。諸国の民が都の光によって歩み、地の王達はその栄光を携えて都に来る。
22節でわたくしはこの都の中に神殿を見なかった。それは万物の支配者である神であられる主と子羊が都の神殿だからである。黙示録11章19節でヨハネが天国に挙げられた時に神殿を見ている。しかし、新しいエルサレムには神殿がない。サタンが出入りしていた天国には神殿があった。また、罪人がいた地上にも神殿があった。しかし、永遠の神の都、新しいエルサレムでは、父なる神様とイエス様ご自身が神殿で、私たちはイエス様の身体である。もう神殿は不必要である。23節で都にはこれを照らす太陽も月もいらないというのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都の明かりだからである。太陽と月が地球から亡くなったわけではないと思われるが、創造主ご自身の栄光に満たされている都は、シャカイナグローリーの栄光によって光々しく光っているので、被造物の光は必要ではない。最初の罪を犯したサタンによって、最初に創造された地上は闇に包まれている結果になった。一部が清められてエデンの園が作られたが、完全な清めではなかったので、海が残され、明るい太陽の光が注がれる昼間だけではなく、闇の一部が残されて夜と名付けられた。新しいエルサレムでは、十字架の血によって完全に清められた者たちが皆住んでいるから、もう太陽も月も必要なく、シャカイナグローリーで包まれて、電気もランプも不必要である。24節で諸国の民が都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。このみ言葉から見ると、新しいエルサレムの外に諸国の民が住んでいると考えてしまうが、そのようなことはメシア王国である千年王国で起こっていたことである。神様がアブラハムと契約なさった永遠の契約はとこしえに続く。諸国の民はギリシャ語では異邦人を表している。永遠の神の都にイスラエルの民と異邦人が感謝と喜びに包まれて一緒に過ごすが、アブラハムの子孫は永遠にアブラハムの子孫である。異邦人は彼らを通して祝福された。創世記12章3節であなたを祝福するものを私は祝福し、あなたを呪うものを私は呪おう。地上の全ての民族はあなたによって祝福される。すべてのものが神の子となり、全員が愛によって歩む。全てのものが、アブラハムの子孫としてお生まれになったイエス様によってこの祝福を受ける。

 

黙示録21章25節から27節。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして人々は諸国の民の栄光と誉れとをそこに携えてくる。しかし、全て汚れた者や憎むべきことと偽りと行う者は決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてある者だけが入ることができる。
25節で都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。夜がないことを強調している。これが罪が全くなく、罪を犯す者もいないので、門を閉じる必要がないのである。26節でこうして人々は諸国の民の栄光と誉れとそこに携えてくる。新しいエルサレムに入るものは、栄光と誉れを主に携えてきた者たちのみである。27節で、しかし、全て汚れた者や憎むべきことと偽りを行う者は決して都に入れない。子羊の命の書に名が書いてあるものだけが入ることができる。罪人たちは火の池に入った者たちである。彼らはとこしえに神様と離れてしまった。その人々の名は子羊の命の書には書かれていない。エペソ1章4節と5節で、神は私たちを世界の基の置かれる前から、彼にあって選び、御前で清く傷のないものにしようとされました。神は御旨と御心のままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定められました。
神様は、罪の世界をなくすために、愛をもってイエスキリストを送ることを、世界の基が置かれる前からご計画なさり、イエス様を信じる者が神の子となる用意をなさった。神様が、誰がイエス様を信じて永遠の神の都に到着するのか、すでにご存知のゆえ、子羊の命の書に名を書き記されたと考えられる。

 

黙示録22章1節と2節、御使いはまた私に水晶のように光る命の水の川を見せた。それは神と子羊との蔵から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には命の木があって、十二種の実がなり、毎月実ができた。またその木の葉は諸国の民を癒した。

1節と2節で、御使いはまたわたくしに水晶のように光る命の水の川を見せた。それは神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。都の中央通りはガラスのような純金で、大通りの中央に水晶のように光輝く川が流れている。父なる神様とイエス様の御座から流れ出ている命の水である。2節で、川の両岸には命の木があって、十二種の実がなり、毎月実が出た。また、その木の葉は、諸国の民を癒した。アダムとイブが創造されたとき、エデンの園にあった木である。アダムとイブは罪を犯して、永遠の命を保ってくれる命の木から実を取って食べることが禁じられた。


創世記3章24節で、こうして神は人を追放して、命の木への道を守るために、エデンの園の東にケルビムの輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
神様のご臨在のある命の木があったエデンの園から人間は追放された。ケルビムが神様のご臨在の場所と、罪を犯した人間との仕切りとなっている。同じように、荒野の幕屋で神様のご臨在が現れる至聖所と聖所の間の垂れ幕にケルビムの絵が織り込まれた。新しいエルサレムでは、神様と人間を仕切るものは何もない。再びいのちの木のところに戻れた。両岸にある命の木は、十二種類もの実を毎月実らせる。これは、永遠の神の都に食物があることを表している。永遠の都では時間がないように思うが、毎月と言っているから、何らかのカレンダーがあると考えられる。同じく2節で、その木の葉は諸国の民を癒した。罪も呪いもない世界で、病気はない。神学者の中には、この木の葉はリハビリのような癒しの力があり、人々が再び罪に戻るような思いが決して起こらないように、いつも清く正しく、喜びと祝福をもって神様に仕えることが永遠に続く基と考えている。


黙示録22章3節から5節、もはや呪われたものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあって、その僕たちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜はない。神である主が彼らを照らしているので、彼らには灯の光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。3節と4節でもはや呪われたものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあって、その僕たちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。永遠の神の都では、全ての呪いが完全になくなる。わたくしたち一人一人が神様と顔と顔を合わせて伝えることができる。5節で、もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らには灯の光も太陽の光もいらない。もう夜がないとは、もう罪はないことを表している。夜があるから光が必要だったが、シャカイナグローリーによって絶えない光が輝いている。


黙示録22章6節、御使いはまた私に、これらの言葉は信ずべきものであり、真実なのですと言った。
預言者たちの魂の光である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべきことをその僕たちに示そうとされたのである。御使いはまた私に、これらの言葉は信ずべきものであり、真実なのですと言った。黙示録を書いたヨハネが、これらのことを聞き、そして見たのです。黙示録に書かれている全てが、信ずべき真実なのである。

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