
今回のオメガバイブルスタディーは、黙示録20章12節からの千年王国の最後に起こる審判の学び。千年王国の最後に、あらゆる時代のあらゆる人々が審判のために復活する。
黙示録20章12節から15節、また、わたくしは、死んだ人々が大きいものも小さいものも水の前に立っているのを見た。そして数々の書物が開かれた。また別の1つの書物が開かれたが、それは命の書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。そして人々は各々自分の行いに応じて裁かれた。それから、死とハデスとは火の池に投げ込まれた。
これが第2の死である。命の書に名の記されていない者は皆この火の池に投げ込まれた。
12節で死んだ人々が、大きい者も小さい者も御座の前に立っている。これは、魂がハデスにいたが、お墓の中で眠った体が復活して、魂と合体している状態である。アダムとイブが罪を犯す前は、私たち人間は霊、魂、そして体を持っていた。しかし、罪を犯したことによって、神様を霊と誠もって礼拝する霊が死んだ。イエスキリストを信じる者は、霊が復活して霊と誠をもって神様に近づくことができる。信者の霊と魂は死ぬと天に送られるが、体はお墓に入れられる。未信者の霊は死んだままだが、魂を通して全員永遠の命を持っている。数々の書物が開かれたというのは、一人一人の人生が書物に書き記されていることである。書物の数は多くの種類である。また、別の1つの書物も開かれたが、それは命の書であった。数々の書物の中で、命の書と呼ばれる書物がある。
詩篇139編16節で、あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物に全てが書き記されました。
これは、全てのものが胎児の時に書物に書き記されると考えられる。
詩篇69編28節で、彼らが命の書から消し去られ、正しいものと並べて書き記されることがありませんように、神様を信じることなく死んだ者たちの名前は消し去られると考えられる。
また、黙示録13章8節には、子羊の命の書に世の初めからその名が書き記されていない者、この人たちは、反キリストの働きに参加し、惑わされ、彼を拝む人々である。命の書と子羊の書は別のものである。子羊の命の書に書かれている者たちは、世の初めから選ばれている者たちである。どのように選ばれるのかは、全知全能の神様が救われる者をすでにご存知であるが故に選ばれたと考えることができる。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。書き記されている内容に応じて裁かれる。裁きにどのような段階があるのかは語られていない。
13節で海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。
多くの船が遭難して遺体が見つかっていない人や、飛行機が墜落して遺体が見つかっていないなど、海の中にある死体が復活する。地上のあらゆる死体、そしてハデスに行っていた魂も一緒に復活し、体と合体する。神様を信じていない死んだすべての人々が復活し、地上に死体が1つとして残らない。
第1コリント15章53節から55節、朽ちる者は必ず朽ちない者を着なければならず、死ぬ者は必ず不死を着なければならないからです。
しかし、朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬ者が不死を着る時、死は勝利に逃れたと記されている御言葉が実現する。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。
54節で死ぬ者が不死を着る時、死は勝利に飲まれたと記されている御言葉が実現する。千年王国の最後に、死のとげは完全に破壊され、死というものから勝利する。その後、永遠に死ぬ者はいない。
黙示録20章14節で死とハデスとは、火の池に投げ込まれた、これが第二の死である御再臨直後に起こった。第一の復活に預からなかった者たちが、アダムとイブの時から千年王国の最後までの人々全員が、審判のために復活する。これが第二の復活である。黙示録20章6節で、信者には第二の死は何の力も持っていないと書かれている。審判のために復活している者は、審判の後、火の池に入れられます。これを第二の死と呼ぶ。第一の復活に預かった者たちは、第二の死は全く関係ない。
15節で命の書に名の記されていないものは皆この日の池に投げ込まれた。
神様を信じないまま死んだ人々の名が命の書から取り除かれるから、この書物に名が記されていないものは、永遠に神様から離れる火の池に入れられる。ここで多くの人々が疑問を感じている。一生涯福音を聞く機会がなく、神様を信じるチャンスのなかった人々はどうなるのか。その人々が神様を知るチャンスがなかったのに、火の池に入れられるなんて、神様は不公平だ。これは多くの人々が感じていることである。もしも神様が公平なお方だったら、わたくしたちはどうなっていたであろう。神様はアダムとイブに食べてはいけないと言われたのは、無数の果物がなっている木の中で、たたの1本だけである。
創世記2章17節で、それをとって食べるその時、あなたは必ず死ぬとおっしゃった。もし神様が公平なお方なら、自業自得だと言ってそのまま放っておいたのではないだろうか。しかし、ヨハネの3章16節に書かれているように、神様は人をあまりにも愛されたので、ひとり子イエス様を罪の贖いをするために送られたのである。アダムとイヴのせいで死が支配するようになり、死亡率100パーセントの世界になってしまった。これは神様のせいではない。神様が公平なお方なら、ご自身の命を懸けてまで人を罪の世界から救おうとはなさらなかった。神は愛なりと記されているように、愛故になさったのである。人々がこの神様の愛を知ることができるのは、私たち人間の伝道が大きな役割を果たす。
ローマ書1章20節、神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこの方、被造物によって知られ、はっきりと認められているのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
アブラハムは誰にも伝道されていないが、誠の神様の存在を被造物を通して知り、信仰が生まれて神様と繋がったのである。世界中どこの人々でも、被造物を見て創造の死の力を知るならば、神様はその人が信じることができるようにその人を導いて下さるに違いない。それではいよいよ永遠の神様の世界、新天新地の学びに入る。
黙示録21章1節、また私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
新しい天と新し地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、これは今の天と地がなくなったのではなく、昔の天と地のシステムが無くなったことを語っている。以前の神様を信じない者が出入りしていた天も地も過ぎ去った。新しい世界にはもはや海もないと言っている。どうしてであろう。
イザヤ書57章20節に、しかし、悪者どもは荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。
この御言葉から、海は悪者共によって平安が奪い取られることを例えていると解釈する神学者たちがいる。また、詩篇107篇25節に主が命じて嵐を起こすと、風が波を高くしたとある。また、26節から28節では、彼らは深みに下り、酔った人のようによろめき、苦しみの時、主に向かって叫ぶとある。そして29節では、主が嵐を沈めると波はない。これらの御言葉の故に、もう海は無いというのは、もう悪者共はいない、もう苦しみはない、そしてもう平安を奪う者がいないと解釈できる。しかし、もう一つの考えが神学者たちによって語られている。