
今回のオメガバイブルスタディーは、前回の第一の復活に引き続いて、千年王国の様子を学ぶ。大患難時代の聖徒たちが、どうして教会が王となり妻子となる時に同等の位を頂いているのか疑問に思われる方もいるかも知れない。
マタイの福音書20章1節から14節で、ブドウ園に雇われた人々のことをイエス様が例えで語られた。朝の9時、12時、午後の3時、5時から人々が雇われているが、どの時間の人も1デナリの報酬が約束された。最後の5時に雇われた人々が来て、少しの間しか働いていないのに、同じ1デナリの報酬をもらっていた。
マタイの福音書20章10節から14節、最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはり一人1デナリづつであった。そこで彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて言った。この最後の連中は1時間しか働いていなかったのに、あなたは私たちと同じようにしました。私たちは1日中労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。しかし、彼はその人に答えて言った。友よ、私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ、私としては、この最後の人にもあなたと同じだけあげたいのです。
13節で雇い主が私はあなたに何も不当なことをしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではないか。同じように、最後に殉教した患難の聖徒たちが、二千年間主に仕えた教会と同じ境遇に置かれている。また、四千年間主に従ってきたユダヤ民族にとって、待に待っていたメシアの花嫁は異邦人の教会であったことは、同じように苦い思いかもしれない。しかし、神様は一人一人を祝福したいのである。誰にも不当なことはしない。誠の平和が訪れる千年王国に、そんなに多くの王たちが必要なのかと不思議に思われる方もいるかもしれない。
黙示録19章15節に、この方の口からは諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。この方は鉄の杖を持って彼らを牧される。
諸国の民はサタンの誘惑がなくても従順ではない性質を受け継いでいる。全員が従順ならば、鉄の杖は必要ではない。一人一人の王たちが管理しやすい人数で人々を導くのだと考えられる。現在のように大統領が変わったり、王が変わったりすることなく、栄光の身体を頂いた人々が世界を治める。千年王国は素晴らしい世界であるが、千年王国の後に完全なる世界である新天新地が設立される。では質問が出てくる。どうして御再臨直後に完全なる新天新地が設立されず、まずは千年王国があるのであるか。答えは創世記に出てくる。
神様は創世記13章15節で、私はあなたが見渡しているこの地全部を永久にあなたとあなたの子孫とに与えようと言って、アブラハムに永遠の約束をなさった。
そして創世記26章3節であなたはこの地に滞在しなさい。私はあなたと共にいて、あなたを祝福しよう。それは私がこれらの国々を全てあなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうして私はあなたの父やアブラハムに誓った誓いを果たすのだと言われ、アブラハムへの約束がイサクに継がれた。
その後、創世記28章13節で、見よ、主が彼の傍らに立っておられた。そして仰せられた。私はあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。私はあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与えると言われ、アブラハムとイサクへの約束がヤコブに継がれた。この3人に与えられた御言葉に共通している言葉があります。あなたとあなたの子孫に与えようという言葉である。あなたと言われているのは、アブラハム、イサク、ヤコブが個人的に指名されていることになる。しかし、3人ともこの約束を受けることなく亡くなっている。神様が約束を守られなかったのではない。
イエス様が復活を信じないサドカイ人たちに、マタイの福音章22章32節で、私はアブラハムの神、イサの神、ヤコブの神とあるとある。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神ですと説明されている。これは、アブラハム、イサク、ヤコブにお約束なされたことが今も生きていることで、復活は不可欠であることを知らされている。天国にはアブラハムが見渡していた土地はない。また、イサクが住んでいたネゲブの土地や、ヤコブが横たわっていたベテルの土地はない。このお約束を果たすのには、どうしても神の御国が今の世界の土地に到来しなければならない。千年王国はそのためにあるのである。千年王国を信じない神学があるが、千年王国なしでは神様のお約束は果たされず、聖書が不完全に終わってしまう。霊的に成就したと理解する方々がいるが、永遠に約束をなさった場所は、実際にアブラハム、イサク、ヤコブが住んでいた土地である。霊的という言葉だけでは解決にならない。千年王国で復活した彼らが、実在する約束の地を受け継ぐ。その時、イスラエルの民が再び集められる。
イザヤ書11章6節から9節、狼は子羊と共に宿り、ひょうは子ヤギと共に伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さな子供がこれを追っていく。牝牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のように藁を食らう。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はマムシの子に手を伸べる。私の聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず損なわない。主を知ることが、海を覆う水のように潮を満たすからである。メシア王国で狼は子羊と共に宿り、ひょうは子ヤギと共に伏し、牝牛と熊とは共に草をはみ、乳飲み子はコブラの穴の上で戯れる。
人間の世界に誠の平和が訪れる。神の国では、動物の世界にも誠の平和が訪れる。9節で聖なる山のどこにおいてもということは、全員が主を求めて礼拝するところは聖なる山となると考えられる。なぜなら、聖なる山はエルサレムだけではなく、主を知ることが海を覆う水のように地を満たすからですと預言されているからである。
イザヤ書11章10節から12節、その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く。その日、主は再び手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。
残っている者をアッシリア、エジプト、パトラシュ、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は国々のために旗をあげ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。その日とは、主を知ることが地を満たす、動物の世界にも誠の平和が訪れた日のことである。その時、イエス様は再び立ち上がって、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされたものを地の四隅から集められる。再びというのは、二度目のことである。地の四隅からイスラエルの民を集めることが、これ以前に一回起こっているということです。この一回目が、今現在、イスラエルの民が約束の地に集められている時である。現在、イスラエルの民は、約140カ国から集められている。以前に、エジプトから連れ出されたり、バビロンから約束の地に戻されたりしたことがあるが、ただの一度も世界の四隅である全世界から集められたことはない。近代イスラエルが初めてである。これは現在アブラハムの子孫が世界中から集められているが、全員約束の地に戻る前に御再臨になっていることである。御再臨が起こって誠の平和が訪れた時、再び主は立ち上がって、残っているイスラエルの民を地の四隅から呼び戻される。この御言葉から見ると、御再臨はいつでも起こりえるほど用意が整っていると考えられる。この時、異邦人たちがイスラエルのための帰還をお手伝いする。
イザヤ書49章22節に神である主は仰せられる、見よ、私は国々に向かって手を挙げ、私の旗を国々のために向かってあげる。彼らは私の息子たちを懐に抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来ると預言されています。異邦人たちが神様のお手伝いすることへの喜びで、彼らをおんぶして抱っこして肩に乗せて、約束の地に連れてくる。
ホセア書3章5節には、その後、イスラエル人は帰ってきて、彼らの神、主と彼らの王ダビデを訪ね求め、終わりの日におののきながら主とその恵みに来よう。戻ってきた彼らは、おののきながら主イエスキリストと彼らの王であるダビデを訪ね求める。千年王国では、復活したダビデがイスラエルの王となる。
エゼキエル書37章24節に、私の僕ダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただ1人の牧者となる。彼らは私の定めに従って歩み、私の掟を守り行うという預言が成就する。